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岸田国士の全作品

青空文庫で公開されている岸田国士の全作品639篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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[#ページの左右中央]人物夫妻時晴れた日曜の午後所庭に面した座敷[#改ページ]夫(縁側の籐椅子に倚り、新聞を読んでゐる)「米国フラー建材会社のターナー支配人が一日目白文化村を訪れて、おゝロスアンゼルスの縮図よ!と申しましたやうに、目白文化村は今日瀟洒たる美しい住宅地になりました」妻(縁側近く座蒲団を敷き、編物をしてゐる)なに、それは。
第一場静かな海を見下ろす小高い砂丘の上日没前後男と女とが、向うむきに、脚を投げ出して坐つてゐる。
劇をやるのは何のためだろう子供たちが集まって劇をするということは、楽しい遊びであると同時に、おたがいの勉強であるということを忘れないようにしたい。
奥居町子聖風学園の経営者同朔郎その夫花巻篠子変死せる児童の母有田道代教師富樫篠子の甥と称する男尾形嘱託医角さん小使たいその妻かず篠子の女中運転手その他男女の生徒多勢[#改ページ]東京に近いある新開田園都市の一隅。
祝賀会を繞つて無理やりに父の隣に坐らされた千種は、広い食堂の一隅に設けられた婦人連の席へ、僅かに晴れがましい微笑を投げてゐた。
俳優とは何か講義の題目は俳優倫理というのですが、俳優倫理という言葉は今日までどこでも使われた例はないと思います。
またひとり、作家が自殺した、といふ感じ方でこのニュウスを受けとつた人々がずいぶんたくさんあつたと思ふ。
一の郷田梨枝子は、叔母と並んで東京駅のプラット・フォームに立つてゐる。
宗教について宗派をどうするとか、宗教団体を再編成するとかいふことについては、実際の事情をまだ知らないから現在なんにも考へてはをりませんが、宗教心――所謂宗教的感情といふものがこの頃の日本人には非常に少ないやうです。
すべての革新運動と同様に、演劇の革新運動も亦、精神と形式とがつねに相伴ふものとは限らない。
父は旅行、母は買物、兄は散歩といふわけで、珍しく民子一人が、縁側で日向ぼつこをしてゐるところへ、取次も乞はず、義一がのつそり庭伝ひにはひつて来た。
ジュウル・ルナアル(Jules Renard 1864―1910)の作品のうちで最もひろく読まれ、世人に親しまれているのは、この「にんじん」である。
勇士黒岩万五の帰村北支の戦線から一年半ぶりで故郷の村へ帰つて来た黒岩万五は、砲兵上等兵の軍服を思ひきりよく脱いで、素ツ裸に浅黄の腹掛けといふ昔どほりの恰好になつた。
[#ページの左右中央]人物眼鏡をかけた男繃帯をした男[#改ページ]鉄道線路の土手――その下が、材木の置場らしい僅かの空地、黒く湿つた土の、ところどころに、踏み躙られた雑草。
「大事なこと」とは?三年間の蟄居生活が私に教へたことは、「なにもしない」といふことの気安さと淋しさである。
人物今里念吉同二見同甲吉黒林家の女中ため酒屋の御用聞大串葉絵片倉州蔵の妻まつの女の子百瀬鬼骨郵便配達男の子歩兵大尉島貫片倉州蔵平大野球部選手越水同クマソ同ヤモリ近所の人櫛谷同尾畑同黒林同両角同岩城同藤巻隠居多胡鵺人近所の人A同B同C時現代...
人物加来典重冬菜四紋ネラ子雅重冬菜の母早見博士煙(主治医)細木助教授大里教授浦(玉石堂主人)津丸(雑誌記者)看護婦[#改ページ]ある大学の哲学教授、加来典重は、カントの研究家としてその名を知られ、近年は、ハイデッゲルなどの名をもその講義の間にしばしばはさみはするが、学生の一人がサルトルについて質問を行つたところ、それは自分の専...
私は近頃支那人について語られてゐる文章を読む機会が多いのであるが、やはり永く支那にゐて親しく彼地の人々と接した経験が土台になつてゐるやうな意見には、なかなか傾聴すべきものが多い。
桔梗芒女郎花こうろぎ風蛇少女老婆高原――別荘の前庭――秋遠景は、澄み渡つた空に、濃淡色とりどりの山の姿。
□鏡に顔を映して見て――へえ、おれはこんな面をしてゐるのか――と、今更らしく、変な気持ちになることがある。
批評は科学でもあり芸術でもあるといふ意味に於て、サント・ブウヴは正に批評家の典型である。
今月は、同人としての責(?)を果し得た(?)ことになつた。
一年の大部分を山で暮してゐる私は、季節の足音に耳をすます習慣がいつの間にかできました。
*悲劇喜劇は、人生の中に舞台を観ようとするものの覘眼鏡である。
阿佐ヶ谷附近――高台――座敷又は書斎が往来に面してゐないこと――五間ぐらゐ――台所の踏板が反り返つてゐないこと――自動車の出入自由ならずともよし――なるべく近所に鶏を飼つてゐないこと――湯殿と便所が申訳についてゐるのでは困る――庭はそんなに広くなくてもよろしい――営養不良の松の木なんか植ゑてないこと――総じて家賃を貼り出してあるやうな体裁の家ならお断り――家主は軍人でも、小学校長でも、いいこと――番地は百三十二番地を忌む――御心当りの方は「手帖」気附にてお知らせを乞ふ――御希望により薄謝呈上。
――それが、画かきらしくないんですの。
見物のやじり方には、古今東西を通じていろいろあるやうだが、昔、仏蘭西では、舞台の俳優めがけて、腐つた卵や、焼き林檎を投げつけるといふ野蛮な風習があつた。
鷲がその威風に似ず、低脳らしい金属性の声をたてた。
この一巻には、今までのどの作品集にもいれることのできなかつた、私としてはやゝ例外的な形式の短篇のみをあつめてみることにした。
――おれはかうして雲を見てゐる。
近代俳優の特色が、いはゆる限られた役柄をもたぬところにあるとすれば、中村伸郎はまさに、さういふ俳優の一人である。
時代や世相がどのやうに変つても、短歌といふ日本独特の詩の形式が、あらゆる分野の人々の生活の中で、つまり生活が生み出す自然な芸術のかたちとして、着実な根を張つてゐることをわれわれは考へてみなくてはならない。
芝居といふものを強ひて大勢に見せるものだと考へる必要はない。
今度の芥川賞の銓衡には、私は選者としての任務を果すことができなかつた。
国語問題はもはや論議の時代を過ぎて、着着実践の時代にはひつてゐると云つていいが、私はなほこの問題の含む領域が一層広からんことを望んでゐる関係上、あらゆる方面に於ける意見が出つくして、そのすべてを解決にみちびくやうな方策が国家としてとらるべきだと信じてゐる。
ギャンチヨンの戯曲「マヤ」は、もう、フランス劇壇の独占物ではなく、世界の舞台の演目のなかに数へられる傑作の一つとなつた。
フランスについて語られた書物のうち、これほど公平にフランスを観、批評したものは、これまでにも少くはないかと思ふ。
フランスには文学賞の数が非常に多く、その意味では受賞作品必ずしも生命の永い傑作とは云ひがたいけれども、その選択の標準にはつきりした意図が示され、且つそれぞれの作家の其後の業績をも考慮に入れるなら、最近十年間のフランス文壇の最も溌溂たる動きを見るのにこれ以上便利で有益な資料はなく、一方、多数のわが国の読者にとつて、若い文学の新鮮な魅力を、異国的にして同時に世界的な舞台を透して味ふ絶好の機会を得ることになるであらう。
本誌(「劇作」)三月号に発表された田中千禾夫君の処女作『おふくろ』について、僕として云ひたいことは、ただ一言で尽きる。
×加宮貴一君、「光明の文学の序曲」を拝見しました。
これは随筆集といふよりも、寧ろ雑文集である。
シナリオといふものが、文学の一つのジヤンルとして発達するかどうか、例へば戯曲のやうなものになる可能性があるかどうか疑問である。
吉江博士の業績について私は深く識つてゐるとは云へないけれども、博士の同学問に於ける信望は、単に、その人徳の然らしむるのみではなからう。
哲学者としてのデカルトについて私はなんら語る資格はない。
およそひとつの新劇団の歴史といふものは、常に苦闘の連続なのであるが、現在、創立十周年を迎へるといふ新築地劇団の如きは、あらゆる意味に於て満身瘡痍といふ感じを与へ、今日までその生命を持ちつゞけたことは寧ろ奇蹟であると云つていゝ。
大陸開拓文芸懇話会といふものが去年でき、私もその一員であつて、この集に作品を出してゐないから、埋め合せに序文を書けといふことである。
もう十年も前のこと、私が友人A君に、ふとした話の序に、佐伯祐三の絵が好きだといふと、その友人は、それからしばらくたつて、これはどうだといつて、小さな風景のスケッチをもつて来てくれた。
飯田美しき町山ちかく水にのぞみ空あかるく風にほやかなる町飯田静かなる町人みな言葉やわらかに物音ちまたにたゝず粛然として古城の如く丘にたつ町飯田ゆたかなる町財に貧富あれども身に貴賤ありとおぼへず一什一器かりそめになく老若男女、みなそれぞれの詩と哲学とをもつ町飯田ゆかしき町家々みな奥深きものをつゝみひとびと礼にあつく軒さび...
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