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久生十蘭の全作品

青空文庫で公開されている久生十蘭の全作品99篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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四月七日だというのに雪が降った。
青い波のうねりに、初島がポッカリと浮んでいる。
「九時二十分……」新橋のホームで、魚返光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
市電をおりた一人の男が、時計を出してちょっと機械的に眺めると、はげしい太陽に照りつけられながら越中島から枝川町のほうへ歩いて行った。
進駐軍、厚木キャンプの近くにある、聖ジョセフ学院中学部の初年級の担任教諭が、受持の生徒のことで、地区の警察署から呼出しを受けた。
第一回一、古市加十[#「古市加十」は底本では「古川加十」]、月を見る事並に美人の嬌態の事甲戌の歳も押詰って、今日は一年のドンじりという極月の卅一日、電飾眩ゆい東京会館の大玄関から、一種慨然たる面持で立ち現われて来た一人の人物。
いつお帰りになって?昨夜?よかったわ、間にあって……ちょいと咲子さん、昨日、大阪から久能志貴子がやってきたの。
後白河法皇の院政中、京の加茂の川原でめずらしい死罪が行われた。
安部忠良の家は十五銀行の破産でやられ、母堂と二人で、四谷谷町の陽あたりの悪い二間きりのボロ借家に逼塞していた。
享保十八年、九月十三日の朝、四谷塩町のはずれに小さな道場をもって、義世流の剣道を指南している鈴木伝内が、奥の小座敷で茶を飲みながら、築庭の秋草を見ているところへ、伜(せがれ)の主水が入ってきて、さり気ないようすで庭をながめだした。
十五日水曜どこかで道草を食っていた最後のB29が一機、海よりも青い空の中をクラゲのように泳ぎながらゆるゆるとサイパンのほうへ帰って行った。
松久三十郎は人も知る春陽会の驥足である。
敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルのヴェランダや霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。
一九二八年(昭和三)の十二月二十九日、三発のフォッカー機で、西経百五十度の線を南極の極点に向って飛んでいるとき、南緯八十度附近の大氷原の上で、見せかけの花むらのような世にも鮮かな焔色したものがバード大佐の視覚をかすめた。
全十二巻の厖大な艶笑自叙伝「回想録」M※moires を書くことに生涯を費した色情的好事家ジォウァンニ・ヤコポ・カサノヴァと霊媒術をもってルイ十六世の宮廷で華々しい成功をし、「マリイ・アントアネットの首飾事件」に連坐してバスチーユに繋がれ、後、ローマで獄死した天才詐欺師バルサモ・ディオ・カリオストロ伯爵とルイ・シャルル・ド・カストリ侯爵の三人をある小史作者は十八世紀末から十九世紀中頃までの三大変種といっている。
蘆田周平はサンルームのつづきの日向くさい絨氈の上に寝ころがり、去年の冬から床のうえに放りだしてあった絵葉書を拾いあげた。
この夏、拠処ない事情があって、箱根蘆ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。
深尾好三はゆたかに陽のさしこむ広縁の籐椅子の中で背を立てた。
プロローグモスクワの科学翰林院は、第二次五カ年計画期間中における文化的国家事業として、三つの企画をあげ、国民教育省および国家計画委員会を通じて中央委員会に提出し、第八回連邦ソヴィエト大会で承認された。
出かける時間になったが、やすが来ない。
我が家の楽園春雨の降る四月の暗い日曜日の朝、渋谷の奥にあるバラックの玄関の土間に、接収解除通知のハガキが、音もなく投げこまれた。
終戦から四年となると、復員祝いも間のぬけた感じだったが、山川花世の帰還が思いがけなかったせいか、いろいろな顔が集まった。
これからする話を小説に書いてくれないかね、と玉本寿太郎がいった。
いつお帰りになって?……昨夜?よかったわ、間にあって……ちょいと咲子さん、昨日、大阪から久能志貴子がやってきたの。
正午のラジオニュースで、菱苅安夫は長男の安一郎が谷川岳で遭難したことを知った。
前大戦が終った翌年、まだ冬のままの二月のはじめ、パリの山手のレストランで働いているジャンヌ・ラコストという娘が、この十カ月以来、消息不明になっている姉のマダム・ビュイッソンの所在をたずねていた。
北海道の春は、雪も消えないうちにセカセカとやって来る。
ルネ・ゴロン Ren※ Gorron はオウブ県ノジャン警察署の刑事を振出しに、巴里警視庁捜査局の第一課長から司法監察官になり、一九二六年に隠退するまでの二十六年の間に「ビペスコ伯爵夫人事件」「パスカルの三重殺人事件」「反射鏡事件」等々、フランスに起った大きな事件をほとんどみな手懸けている。
むぐらをわけて行くと、むやみに赤蛙がとびだす。
飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風土記に見えている。
ルイ十八世復古政府の第三年、仏領西亜弗利加の海岸で、過去にもなく、将来にもあろうとも思えぬ惨澹たる海難事件が起った。
宇治黄檗山の山口智海という二十六歳の学侶が西蔵へ行って西蔵訳の大蔵経(一切経または蔵経、仏教の典籍一切を分類編纂したもの)をとって来ようと思いたち、五百三十円の餞別を懐ろに、明治卅年の六月廿五日、神戸を発って印度のカルカッタに向った。
風がまだ冷たいが、もう、すっかり春の気候で、湖水は青い空をうつして、ゆったりとくつろいでいる。
森鴎外の「独逸日記」(明治十七年十月から二十一年五月にいたる)の十九年六月のところに次のような記述がある。
第一部皇帝の死刑沼の多い雪の平原のむこうにペテルブルグの円屋根や尖塔が輝き、空のはてはフィンランドのほうへ低く垂れている。
北川千代は栃木刑務所で服役中の受刑者で、公訴の罪名は傷害致死、刑期は六年、二十八年の三月に確定し、小菅の東京拘置所から栃木刑務所に移され、その年の七月に所内で女児を分娩した。
不知森もう秋も深い十月の中旬。
そのころセント・ヘレナという島にはなにか恐しい悪気があって、二年目にはかならず死んでしまうといわれていた。
一九二九年の夏、大西洋に面した西仏蘭西の沿岸にある離れ小島に、二人の東洋人がやって来た。
クラゲの海夏は終ったが、まだ秋ではない、その間ぐらいの季節……沖波が立ち、海はクラゲの花園になっている。
巴里の山の手に、ペール・ラシェーズという広い墓地があって、そのうしろの小高い岡の上に、≪Belle-vue de Tombeau(ベル・ビュウ・ド・トンボウ)≫という、一風変った名の喫茶店がある。
京都所司代、御式方頭取、阪田出雲の下役に堀金十郎という渡り祐筆がいた。
黒いモロッコ皮の表紙をつけた一冊の手帳が薄命なようすで机の上に載っている。
朝の十時ごろ、俳友の国手石亭が葱(ねぎ)とビールをさげてやってきた。
冬木が縁の日向に坐って、懐手でぼんやりしているところへ、俳友の冬亭がビールと葱をさげてきて、今日はツル菜鍋をやりますといった。
二時半に食堂部が終ると、外套置場と交換台に当番をおいてレジスターやルーム・メイドが食事に行く。
享保四年の秋、遠州新居の筒山船に船頭左太夫以下、楫取、水夫十二人が乗組んで南部へ米を運んだ帰り、十一月末、運賃材木を積んで宮古港を出帆、九十九里浜の沖合まで来たところで、にわかの時化に遭った。
出かけるはずの時間になったが、安は来ない。
伴団六は、青木と同じく、大して才能のなさそうな貧乏画かきで、地続きの古ぼけたアトリエに、年増くさい女と二人で住んでいた。
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