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喜田貞吉の全作品

青空文庫で公開されている喜田貞吉の全作品57篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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緒言往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。
旧幕時代には、エタ非人と普通民との通婚は、国法の禁ずるところであった。
エタをチョウリという地方が多い。
本編は去る七月十一、十二の両日にわたって、仙台放送局の需めに応じて放送したところであります。
この小冊子は昨年「融和促進」を発行しました際の予約に基づいて、もっぱらいわゆる特殊部落の由来変遷を述べたものであります。
大正十二年九月一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした。
特殊部落の人達の口にする言語は、その付近の普通部落の言語と幾らか違ったところがある。
昨秋〔(大正七年)〕十月大和に遊び、石上神宮に参拝して、有名なる神宝六叉鉾と称する異形の古武器を拝観することを得た。
去る五月の中旬、大和の榛原町に行つた時、同町字足立といふ部落が、鬼筋だといふ説について、土地の人に尋ねて見たところが、昔こゝに安達ヶ原の鬼婆々が居つたといふ話があると教へてくれた。
我が群島國の先住種族中、石器を使用して、其遺蹟を後世に遺せるものは何なりやとの疑問に對して解决を與ふる諸説の中、最も多數なるは、之を蝦夷なりとするものと、之を蝦夷とは別種なるコロボツクルなりとするものとの兩説なり。
「穢多」という文字の使用同じ日本の国土に生を営む一部の人民に対して、「穢多」という極めて同情のない文字を用い始めたのは、いつの頃、何人の仕業であるか、思えば罪の深い事をしたものである。
踏み出しの方向如何によって、一歩の差は遂に千里の差となる。
緒言国史地理学上、本邦の種族調査の一部として、さきに「夷俘・俘囚の考」と「東人考」とを発表したる余輩の研究は、ここに中世において武士を夷(えびす)と称したることの理由を説明すべき順序となれり。
緒言余輩は前号において征夷大将軍の名義について管見を披瀝し、平安朝において久しく補任の中絶しておったこの軍職が、源頼朝によって始めて再興せられたものである事情を明かにし、その以前に木曾義仲がすでに征夷大将軍に任ぜられたとの古書の記事があり、それが古来一般に歴史家によって認められているとはいえ、その実義仲の任ぜられたのは頼朝討伐のための征東大将軍であって、征夷ではなく、また内容からも征夷大将軍というべきものではなかった次第を明かにしたのであった。
緒言日蓮宗の宗祖日蓮聖人はエタの子なりという説がある。
特殊部落人口増殖の事実我が国には古え天益人の語があって、人口が日々増加しつつあることは、太古以来既に認められておった。
部落民は一般に仏法に対して最も熱烈なる信仰を有している。
緒言昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。
三善清行の「意見封事」に、延喜頃の人民が課役を避けんが為に出家して、天下の民三分の二は皆禿首というの状態となり、しかも彼らは貌も沙門の如く、心は屠児に似たりとある。
京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。
はしがき我が古代の社会組織の上に「間人」という一階級があった。
はしがき東北文化の研究については、土俗上、信仰上、見のがすことのできないものの一つにオシラ神がある。
明治四十二年十二月三十日、世間では年末だ師走だと餅搗きやら懸取りやらに忙しく騒いでいる中を東京帝国大学の嘱によって石城山神籠石探検の為に登山した。
喜田申す、中山君の早速の御投稿を感謝致します。
本誌第一巻六号に「切支丹と旧穢多」と題して、榊原君の長崎からの通信を掲げたところが、東京中野局消印で「浦部きよし」という方から、「浦上村民は穢多ではない」との投書があった。
虎関の作と云い、玄慧の作とも言われる異制庭訓往来に、賊に大小あり、小罪既に大罪よりも軽し。
徳川時代の法制では、エタは非人の上に立って、これを支配監督する地位にいたのではあるが、非人には通例足を洗うて素人に成ることが出来るという道が開いていたのに反して、エタには殆どこれが認められてないのが普通であった。
山の幸、海の幸にのみ活きておった太古の状態から、次第に進んで世の中の秩序も整頓し、住人にも一定の株が出来ては、他国者や風来人がやって来て、住み着こうとしても容易な事ではない。
自分がこの特別号の発行を思い付いたのは、本年二月下旬、東京築地本願寺で催された同情融和会の折であった。
本誌三月号(九巻三号)に「濫僧考」と題して、社会の落伍者が沙門の姿に隠れて、賤職に従事しつつ世を渡ったことを述べ、それを鎌倉時代にはエタと同視していた次第を明らかにしておいた事であったが、その後さらに二三の資料の存在に気がついたから、いささか前文の不備を補っておく。
大和吉野の山中に国栖という一種の異俗の人民が居た。
従来普通に特殊部落と云っておった我が同胞中の或る部族のことを、近ごろ内務省あたりでは、細民部落といっている。
「特殊部落研究号」は何が為に発刊せらるるか。
緒言奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。
三才図会に長脚国・長臂国がある。
本編は上掲諸編の記事と重複するところことに多きを校正の際心付きしも、今さら改むる能わず。
「民族と歴史」八巻五号所載「旃陀羅考」中にちょっと述べておいた濫僧の事を、今少し精しく考証してみる。
本誌の創刊に際して、余輩の常に使用するに慣れたる「日本民族」なる語が、本来何を意味するか、「日本民族」とは本来いかなるものなるかを説明して、あらかじめ読者諸賢の理会を請うは、余輩が本誌を利用してその研究を進める上に、最も必要なる事と信ずる。
宮城二重櫓の下から白骨や古銭が出たので、やれ人柱だの、墓地であったのだろうだの、工事の際の傷死人を埋めたのであろうだのと、いろいろの説がある様だ。
火葬の初めという事続日本紀に、文武天皇四年飛鳥元興寺の僧道照和尚遷化してその屍(かばね)を焼いたのが、我が国火葬の初めだとある。
今もなお諸所に小字を牛捨場または馬捨場と称する所がある。
序言野人かつて「道鏡皇胤論」一編を京大史学会の雑誌史林の誌上で発表した事があった。
緒言東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた。
余輩がさきに「特殊部落研究号」(本誌二巻一号)を発行して、いわゆる特殊部落なるものの由来沿革を明らかにし、彼らが決してことに疎外排斥せらるべき性質のものにあらざる所以を説明すべく試みた事は、読者諸君の今なお耳目に新たなることと信ずる。
緒言僻陬(へきすう)の地に先住民族がながく取り遺されるという事は、今さら事新しく言うまでもないところで、現に台湾東部の山地には、近くその実際を見るのである。
エタに対する甚だしい圧迫の事実名称廃止以前のエタに対する幕府その他諸藩当路者の発した布告法令の文を見ると、その圧迫の甚だしかった状態は、実に悪寒戦慄を覚えしむるものがある。
緒言昭和三年七月発行関西考古会の機関雑誌『考古』第三号において、余輩は未熟なる「曲玉考」一篇を発表して管見を学界に問うたことがあった。
賀茂葵祭の放免本願寺葬儀参列の宝来の事に関連して、前号までに一と通り祇園の犬神人の観察を終った自分は、これに次いでさらに賀茂の葵祭に関連して、「放免」なるものの由来変遷を観察すべき順序となった。
緒言自分は昨年一月の本誌神祇祭祀号において少彦名命の研究を発表した中に、説たまたま谷蟆の事から、引いてクグツ(傀儡)の名義にまで一寸及んだ事であった。
思いのほかの雪中旅行昨年十一月に始めて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っている折から、山形県史蹟名勝天然記念物調査委員会の開会式が行われるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言って来られた。
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