ブンゴウサーチ
児童書版
TOP 木暮理太郎 全作品

木暮理太郎の全作品

青空文庫で公開されている木暮理太郎の全作品53篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全53件
Tweet
作品名
著者
読了時間
人気
木曽駒矧川志賀先生の『日本風景論』(第三版)を読まれた人は、日本には火山岩の多々なる事という章の終りに、附録として「登山の気風を興作すべし」という一文が添えてあることを記憶されているであろう。
私が始めて秩父の山々から受けた最も強い印象は、其(その)色彩の美しいこと及び其連嶺の長大なることであった。
はしがき我国の一大峡流である黒部川の全貌が完全に世に紹介されるに至ったのは、誰が何と言っても、これは立山後立山両山脈の山々と其(その)抱擁する谷々とに限りなき興味を有し、就中立山連峰と黒部峡谷とを礼讃して措かざる冠君の数年に亘(わた)りて惓むことを知らない努力の結果であることは、動かす可からざる事実であり、又よく人の知っている通りである。
何の為に山へ登るか。
立山山脈と後立山山脈地質学者の説に拠ると、今日普通に日本北アルプスの名で広く世に知られている飛騨山脈は、凡南十度西より東十度北即ち南南西から東北東に向って並走して居る数条の連脈から成っているということである。
日本アルプスの大立物の中で、最後に登られてしかも今でも最も人気を集めている山は、恐らく立山連峰の劒岳であろう。
今日は懐古の夕だそうですから思いきり古い話をすることにしますが、私の古い山旅はただぶらぶら歩いていたのみで日記さえもつけない、ですから忘れてしまった方が多いのは残念ですが、しかし何といっても、見て面白いし、登って面白いし、読んで面白く、聞いても考えても亦(また)おもしろい山のことですから、随分古い思い出はあります。
位置今では日本北アルプスの名で広く世に知られている飛騨山脈は、加藤理学士の説に拠ると、凡そ南十度西より北十度東に向って並走せる数条の連脈から成っているものであるという。
秩父山塊の金峰山は、私の古い山旅の朧げな記憶の中では、比較的はっきりしている方である。
降りがちな天候は、十一月に入ってもからりと晴れた日は続かなかった。
針木峠は人も知る如く、明治九年に新道が開鑿され、数年の後にそれが再び破壊されてしまってからは、籠川の河原や雪渓を辿ることなしに峠を通過することは殆んど不可能であった。
大田蜀山人の『半日閑話』の中に「信州浅間岳下奇談」と題して次の記事が出ている。
『嘉陵紀行』は徳川幕府の頃、三卿の一であった清水家の用人村尾正靖の著である。
当初、山を愛好する一部の人々の間にのみ行われていた登山が、一般世間からは物ずきの骨頂と蔑視されながらも、勇敢に口や筆で夫等の人々が宣伝につとめた努力は報いられて、次第に同好者を獲得することに成功し、後年の隆盛を想わせる曙光にも似た明るい前途を約束し得るに至ったことは、誠に愉快なことであった。
八ヶ峰というのは、鹿島槍ヶ岳と五竜岳との間にある山稜の一大断裂に名付けられた称呼であって、峰とは呼ばれているが実は隆起した地点ではない。
秩父の数多い山の中で、高さに於ても姿に於ても、金峰山は一際すぐれて群を抜いている。
尾瀬の記事は既に書き尽されてあるから、この上の剰筆は真に蛇足であるに過ぎないが、敢て二、三の見聞をここに載せることにした。
大井川奥の田代から入って三伏峠まで、十数日に亙(わた)る南アルプスの縦走を企てたことがある。
古図を閲覧するに当りて何人も抱く可き疑問は、其(その)図が輯製の当時既に知られたる事実を、果して如何程まで広く採録せりや否やといえることなる可し。
筑摩山脈の武石峠が日本アルプス殊に北アルプスの好展望地であることは、『山岳』五年三号の附録中村清太郎君筆の「冬季信州武石峠より望める日本アルプス略図」に依って世に紹介されてから、山岳の展望に趣味を持つ程の人で知らぬ者は無い位有名になった。
都大路に木枯が音ずれて、街路樹の梢が日に増しあらわになりまさる頃になると、濁りがちな空の色も流石に冴えて、武蔵野をめぐる山々の姿が、市中からも鮮に望まれる日が多くなる。
夏の登山が今日のように盛になったのは、色々の原因があるにしても、山が何かしらん人の心をしっかりと捉えずには置かない、強い魅力を持っている為である。
勿来関趾をたずね、鵜子岬に遊び、日和山に登って、漁船に賑う平潟の港内や、暮れ行く太平洋の怒濤を飽かず眺めた後、湾に臨んだ宿屋の楼上に一夜を明かして、翌日仙台からはるばると辿って来た海岸を離れ、小雨そぼふる中を棚倉道に沿うて歩き出した。
峠は「たむけ」の音便であるといわれている。
アーヴィングの『スケッチブック』を初めて読んだとき、リップ・ヴァン・ウィンクルの話の冒頭に、カツキル連山が季節の移り更りや天候の変る毎に、いや実に一日の中でも刻々に不思議な色やら形やらを変えるので、遠近のおかみさん達から完全な晴雨計と見做されていたということが書いてあるのを見て、直に思い出したのは故郷の赤城山のことであった、そして外国にも同じような風習が自然と行われているのを非常に興味深く感じたのであった。
笛吹川は秩父街道最奥の部落である広瀬附近から上流になると子酉川と呼ばれている。
八ヶ岳の裾野ほど高原に富んでいる所は、火山の多い我国にも稀であろうと思う。
陸地測量部で輯製二十万分一の地図を発行するようになったのは、『陸地測量部沿革誌』に拠れば明治十七年からで、これは伊能図を基礎とし、各府県調製の地図を参酌校訂して、全国の地図を作り、一般の便に供するのが目的であったという。
五月の秩父いつも五月、一年中でのよき日である五月になると、私は秩父の山や谷を思い出すことが避け難い一の習慣のようになっている。
これから私が茲(ここ)に述べようとする日本アルプスの仙境というのは、其処に仙人が住んでいたとか、又は現に住んでいるらしいとかいう訳で、仙境と称するのでは勿論ありません。
秩父という名が大宮を中心とした所謂秩父盆地に限られていた時代には、武甲山や三峰山などが秩父の高山であるように思われていたのも無理ではない。
日本アルプスの名称日本本島中部の大山脈である赤石山系、木曾山脈及び飛騨山脈は、今日普通に日本アルプスの名で呼ばれている。
いつぞや秩父の長瀞見物に行って来た人が「どうもいい景色ですな、あんな所は山の中にもそう沢山はありますまい」というて、其(その)話をして呉れたことがある。
古図には立派に記載されている山でも、今日では夫がどの山であるか、殆ど見当のつけようもない程不正確にあらわされているものがある。
大正二、三年の頃、東京から見える山のスケッチを作る為に、強い北西の風が吹く晴れた冬の日には、よく愛宕山の塔や浅草の凌雲閣に上って、遠い雪の山の姿に見入りながら、新しい印象や古い記憶を辿って、山の持つ個性から其(その)何山であるかを探し出すのが楽しみであった。
那須岳那須火山群は、広漠たる那須ヶ原の北端に在って、南北に長い連嶺をなし、所謂那須の五岳を含む山塊を総称したものである。
南アルプスの二、三の山が東京から望まれることが確実となったので、外にも尚お、遠い大井川奥の空から煤煙の都東京をこっそり覗いている山が或は有るかも知れない。
後立山という名は、黒部川の峡谷を隔てて立山の東に連亙している信越国境山脈中の一峰として、夙(はや)くから地誌地図等に記載され、一個の山体として取り扱われていたらしいにも拘わらず、元来が越中の称呼であって、此(この)方面からの登山は、甚しく困難でもあり且つ危険でもあるから、偶に入込む猟師などの外は登山者絶無という有様であったと想われる。
尾瀬の名は『会津風土記』に「小瀬峠陸奥上野二州之界」又は「小瀬沼在会津郡伊南郷縦八里横三里」として載っているのが古書に見られる最初である。
八月二十日於霧ヶ峰「山の会」講演大意、後補筆昔からお談義を聞かせるのは大抵老人と極っているようで「またお談義か、うんざりするな」というようなことは、日常見聞する所であります。
白峰北岳日は忘れたが明治二十六年の八月であった、初めて木曾の御岳に登った時、兼てこの山は高さ一万七百尺、日本第二の高山であると地理書で教えられ、又近所の御岳講の講中で登山したことのある人の話にも、頂上からは富士山が高く見えるだけで、外に目に立つ山は無いと聞かされていたので、そうと許り信じていた私は、意外な展望にすっかり驚いてしまった。
大正七年の秋の末に初めて黒岳山から大菩薩峠に至る大菩薩山脈の主要部を縦走した時の山旅は、おかしい程故障が多かった。
赤石山系の二大山脈即ち白峰山脈と赤石山脈とは、其(その)北端に位する鳳凰山塊と共に、日本南アルプスと呼ばれている。
中房温泉荒模様であった空は、夜が明けると少し穏になって、風は強いが雨脚は疎になった。
都門の春はもう余程深くなった。
西山温泉寝覚の耳元へいきなりザアと大雨の降るような谷川の音が聞えた。
本稿は昭和十一年十一月十五日霧の旅会で催した集会の席上に於て述べたもので、謂(い)わば私の物ずきな地名穿鑿(せんさく)の際にふと思い付いた考に過ぎないのであるが、山名や地名などを考証する場合、時としてはこうした方面も考慮に入れて然る可きではあるまいかと思うので、本誌に掲載して読者の一粲を博することにした、何かの御参考ともなれば幸である。
日光の紅葉大正九年十月十日。
山と山人我国に於て山登りが始められたのは何時頃からであるか、元より判然たることは知る由もないが、遡って遠く其(その)源を探って見ると、狩猟を以て生活の資を得ていた原始民族に依りて、恐らく最初の山登りが行われたであろうことは想像するに難くない。
この一篇は昭和三年六月十日、霧の旅会創立第十周年紀念大会の席上で述べた話の原稿を纏めて、改訂増補したものであるが、もとより未定稿であって、ほんの一寸した思い付を述べたに過ぎない、謂(い)わば夢物語に似たようなものであるから、予め左様御承知を願って置きたい。
マークのついた作品は著作権が存続しています。 詳細は 青空文庫公式サイトの取り扱い基準 をご確認のうえ、取り扱いの際は十分注意してください。