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谷崎潤一郎の全作品

青空文庫で公開されている谷崎潤一郎の全作品35篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜35件 / 全35件
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○春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。
○今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯や水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。
其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(きし)み合わない時分であった。
私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。
「こいさん、頼むわ。
その頃私は或(あ)る気紛れな考から、今迄自分の身のまわりを裹(つつ)んで居た賑(にぎ)やかな雰囲気を遠ざかって、いろいろの関係で交際を続けて居た男や女の圏内から、ひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を捜し求めた揚句、浅草の松葉町辺に真言宗の寺のあるのを見附けて、ようよう其処の庫裡の一と間を借り受けることになった。
その先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまいませんですやろか?それはそれは詳しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか思たりしましたのんですが、……実はこないだ中ひょっと書き出して見ましたのんですが、何しろ事件があんまりこんがらがってて、どういう風に何処から筆着けてええやら、とてもわたしなんぞ...
もう彼れ此れ二十年ばかりも前になろう。
その自天王私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―――近頃の言葉で云(い)えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。
君なくてあしかりけりと思ふにもいとゞ難波のうらはすみうきまだおかもとに住んでいたじぶんのあるとしの九月のことであった。
私があの病気に取り憑かれたのは、何でも六月の初め、木屋町に宿泊して、毎日のように飲酒と夜更かしとを続けて居た前後であった。
東京T・M株式会社員法学士湯河勝太郎が、十二月も押し詰まった或(あ)る日の夕暮の五時頃に、金杉橋の電車通りを新橋の方へぶらぶら散歩している時であった。
わたくし生国は近江のくに長浜在でござりまして、たんじょう(誕生)は天文にじゅう一ねん、みずのえねのとしでござりますから、当年は幾つになりまするやら。
その此(こ)の物語はあの名高い色好みの平中のことから始まる。
私が「細雪」の稿を起したのは太平洋戦争が勃発した翌年、即ち昭和十七年のことである。
その美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる?やっぱりいらっしゃる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云う心持もきまらないので、ついぐずぐずと昼過ぎになってしまった。
人と人とが長い人生の行路に於いて偶然に行き遭い、相接触し、互いに感化を及ぼし、やがて再び別れ別れになって行く因縁を思うと、奇妙な感じがしないでもない。
世に「三人法師」と云う物語がある。
幸子は去年黄疸を患ってから、ときどき白眼の色を気にして鏡を覗(のぞ)き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。
[#ページの左右中央][#改丁]武州公秘話伝曰。
[#改ページ][#改ページ]福子さんどうぞゆるして下さい此(こ)の手紙雪ちやんの名借りましたけどほんたうは雪ちやんではありません、さう云(い)ふたら無論貴女は私が誰だかお分りになつたでせうね、いえ/\貴女は此(こ)の手紙の封切つて開けたしゆん間「扨(さて)はあの女か」ともうちやんと気がおつきになるでせう、そしてきつと腹立てゝ、まあ失礼な、………友達の名前無断で使つて、私に手紙よこすとは何と云ふ厚かましい人と、お思ひになるでせう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒...
岡村君は私の少年時代からの友人でした。
[#改ページ][#改ページ]その改定史籍集覧第十三冊別記類の中に載っている豊内記と云う書は、一名を秀頼事記と云い、大坂の滅亡を見届けた高木仁右衛門入道宗夢の物語を、桑原求徳が書き集めたものであると云うが、同書上巻の一節に石田三成が嫡子隼人正重家の後日譚が見えている。
漆掻きと云ったって都会の人は御存知ないかも知れませんが、山の中へ這入って行って漆の樹からうるしの汁をしぼるんです。
○南勝房法語にいう、「南ガ云ハク十界ニ於テ執心ナキガ故ニ九界ノ間ニアソビアルクホドニ念々ノ改変ニ依テ依身ヲ受クル也、サヤウニナリヌレバ十界住不住自在也、………密号名字ヲ知レバ鬼畜修羅ノ棲メルモ密厳浄土也、フタリ枕ヲナラベテネタルニヒトリハ悪夢ヲ見独リハ善夢ヲ見ルガ如シ、………凡心ヲ転ズレバ業縛ノ依身即チ所依住ノ正報ノ淨土也、其ノ住処モ亦此クノ如シ、三僧祇ノ間ハ此ノ理ヲ知ランガタメニ修行シテ時節ヲ送ル也」と。
二人の稚児は二つ違いの十三に十五であった。
明治三十七年の春から、三十八年の秋へかけて、世界中を騒がせた日露戦争が漸くポウツマス条約に終りを告げ、国力発展の名の下に、いろいろの企業が続々と勃興して、新華族も出来れば成り金も出来るし、世間一帯が何となくお祭りのように景気附いて居た四十年の四月の半ば頃の事でした。
私事にわたることを云ふのは寔に恐縮であるが、泉先生は文壇に於ける大先輩であるのみならず、此の春私の娘が結婚するときに媒酌の労を取つて下すつたので、さう云ふ私交上でも一方ならぬ御厄介になつた。
*私は久しい以前から万年筆を使つたことがなく、日本紙と西洋紙と、二た通り原稿用紙を作つておいて、日本紙の時は毛筆、西洋紙の時は鉛筆を使ふやうにしてゐる。
正直に云つて、晩年の鏡花先生は時代に取り残されたと云ふ感がないではなかつた。
○たしか寺田寅彦氏の随筆に、猫のしっぽのことを書いたものがあって、猫にあゝ云うしっぽがあるのは何の用をなすのか分らない、全くあれは無用の長物のように見える、人間の体にあんな邪魔物が附いていないのは仕合せだ、と云うようなことが書いてあるのを読んだことがあるが、私はそれと反対で、自分にもあゝ云う便利なものがあったならば、と思うことがしば/\である。
人物山内滋山内博士の子息松本文造薬局の書生黛(まゆずみ)夢子歌劇女優黛薫夢子の妹歌劇女優滋の父医学博士浅草厩橋山内病院の院長滋の母其の他浅草公園の俳優不良少年少女等数人及び病院の看護婦召使等時現代所浅草公園を中心とする区域その薬局室七月下旬の或る日の夕方、書生の松本文造と山内滋とが薬局の窓の所でこそ/\と話し合つて居る。
何でも十二月の末の、とある夕暮の事だった。
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