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児童書版

北大路魯山人の全作品(3ページ目)

青空文庫で公開されている北大路魯山人の全作品176篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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美味いさかな、それはなんと言っても、少数の例外は別として関西魚である。
これは有名な大徳寺蔵の牧渓「竜虎」の双幅に見られるその題語款識である(但し「蜀僧法常識製」の分は「観音」の三幅対のもの)。
これから秋までつづく夏季の美肴中、とりわけ重きをなしているものに、あわびが挙げられる。
小島政二郎君ロンドンに向かう途中、カナダのグース・ベイ飛行場にて、天候回復を待つこと十二時間。
小島政二郎君僕の作品展示会の模様は、後便で記事の出ている新聞といっしょに送りますから、それをご一覧ください。
鮎の美味いのは大きさから言うと、一寸五分ぐらいから四、五寸ぐらいまでのものである。
私が陶器を自分で作る気になり、窯を自分の家に築き始めたのは昭和二年四月であり、窯が出来て第一回の製作を了り、初窯を試みたのはその年の十月の七日であるから、まだ至つて日の浅いことである。
今日は簡単に薄口醤油の話をしてみたいと思う。
鎌倉を生きて出でけん初鰹芭蕉(ばしょう)目には青葉山ほととぎすはつ鰹素堂初がつおが出だしたと聞いては、江戸っ子など、もう矢も楯(たて)もたまらずやりくり算段……、いや借金してまで、その生きのいいところをさっとおろして、なにはさておき、まず一杯という段取りに出ないではいられなかったらしく、未だに葉桜ごろの人の頭にピンと来るものがある。
生かすことは殺さないことである。
獣は「人」のように「美」というものの世界を知らない。
山というほどの山ではないが、山中での朝夕起臥三十余年、ほとんど社交のない生活を営みながら、小生は時に快速船のように、何事をも進ませずにはいられないクセを持っている。
鮎は水が清くて、流れの急な、比較的川幅の広い川で育ったのでないと、発育が充分でなく、その上、味も香気も、ともによくない。
心のおもむくままに、いつも美味いものを食って、心の底から楽しんでみたい。
美味い料理をしようと思ったら、その根本は食品材料を生かせばよい、それだけのことである。
ある日、友人の紹介で人が来た。
美味談も考えてみるとなかなか容易ではない。
芸術の中でも、絵画は努力次第で一寸楽しめる境地までは漕ぎつけることが出来るものであるが、書道となるとなかなかに至難である。
書道展覧会など殆ど全部がといって差支えない今の書家風の書、すなわち手先の器用で作り上げる「書」形態は、筆調は体裁上、一寸見に本当の能書と変るところなきものかに見える。
益友と交わることの有益を説き聞かせた者は孔子である。
干ものの美味いのに当ったよろこびは格別である。
磁印、陶印取り混ぜ六顆をご紹介する。
倉橋さんから先日彩壺会の講演の依頼を受けました。
ひぐらしの鳴き声が涼しい。
大聖寺の臣後藤才次郎なるもの徳川の万治年間、九州有田の製陶秘奥を探り、帰来所謂古九谷焼が創まる。
料理は食器なしでは存在しないようです。
近来、食べ物のことがいろいろの方面から注意され、食べ物に関する論議がさかんになってきた。
味噌汁は簡単にできるものでありながら、その実が、日常どこの家庭でも美味くつくられてはいないようなので、一言申し上げようと思う。
良寛は「好まぬものが三つある」とて、歌詠みの歌と書家の書と料理屋の料理とを挙げている。
本秋も都合よく、河井寛次郎氏の年中行事である東京高島屋に於ける製作展を観ることが出来た。
これから当分はさかなの洗いづくりの季節である。
古伊賀、古志野は日本の生んだ純日本的作風を有することが先ず第一の権威に価いする。
今年も高島屋であなたの陶器展を見せてもらいました。
なぜあなたは陶器を作るようになったか、とよく人から訊ねられるが、自分は言下に、それは自分の有する食道楽からそもそもが起こっていると答える。
ある日、ある女人と、こんな話をした。
ある日……なんでもわたしの話はある日である。
今後に望まれる工芸作陶界は、まずそれに相応しい可能の許す限りの高き教養を基礎に、自由思想を育成し、真の自由人と思想家の出現に努め、この作陶人をして思い切った自由を作陶の上に振舞わしめざるを得ない。
河豚のうまさふぐのうまさというものは実に断然たるものだ、と私は言い切る。
「世界の食通から『料理の王』と賛美されたフランス随一の板前オウグュスト・エスコフィエ老がこのほど亡くなった。
春の海はひねもすのたりのたりとしているそうである。
美味い料理を拵える秘訣――美味いものを食う秘訣――この秘訣を知ることが一番大事なことだ。
一口に乾山と言えば、乾山の陶器を想い出すのが世間の通例である。
私はかつて『星岡』誌上に高橋箒庵氏の千慮の一失ともいうべき、音羽護国寺境内における名燈籠写し物に属する碑文を見て、その撰もその書も実は高橋義雄氏のものに非ざるを不可として、どうしてそんな偽り事をやられるものかを高橋氏に質すところあった。
多くの文明諸国におけると同じ様に、日本でも、やきもの、つまり陶磁器が日常生活の什器として使用され始めた時期は、遠く紀元前数世紀に遡ることが出来る。
あるやんごとなき御方の御下問に奉答した私の言葉の要約を摘記する。
私はどうして陶磁器ならびに漆器などをつくるようになったか――みなさま大方はご存じのことと思いますが、私は料理を始めてから、ここにこうして窯を築き、陶磁器ならびに漆器類を、みずからつくっています。
明の古染付に対する大体の観察は上巻に於てこれを述べた。
書のこと、すなわち字のうまいまずいを最も明白に率直に説明しようとするときは、大体次のような甲乙二つの色別が出来るかと思う。
食物はなんとしても「美味く」あって欲しい。
銀座松屋に十月中、明治大正の文士の墨蹟及び遺品の展観が催された。
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