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薄田泣菫の全作品

青空文庫で公開されている薄田泣菫の全作品58篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全58件
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風ぐすり4・12(夕)蚯蚓(みゝず)が風邪の妙薬だといひ出してから、彼方此方の垣根や塀外を穿(ほじ)くり荒すのを職業にする人達が出来て来た。
慈善家5・女性男といふものは、郵便切手を一枚買ふのにも、同じ事なら美しい女から買ひたがるものなのだ。
梅雨まへには、今年はきつと乾梅雨だらうといふことでしたが、梅雨に入つてからは、今日まで二度の雨で、二度ともよく降りました。
茶話2・27フランク・ハリスと云へば聞えた英国の文芸家だが、(ハリスを英人だと言へば或(あるひ)は憤り出すかも知れない、生れは愛蘭で今は亜米利加にゐるが、自分では巴里人の積りでゐるらしいから)今度の戦争について、持前の皮肉な調子で、「独逸は屹度最後の独逸人となるまで戦ふだらう、露西亜人もまた最後の露西亜人となるまで戦ふだらうが、唯英吉利人は――さうさ、英吉利人は最後の仏蘭西人がといふところまでは行るに相違ない」と言つてゐる。
木堂と剣1・7(夕)犬養木堂の刀剣談は本紙に載つてゐる通り、なかなか通なものだが、その犬養氏を頭に戴いてゐる国民党が鈍刀揃ひの、加之に人少なであるのに比べて、犬養氏が秘蔵の刀剣は、いづれも名剣づくめで、数もなかなか少くなかつた。
自書肆岩波氏の需めにより、岩波文庫の一篇として、ここに私の作詩撰集を出すことになつた。
主人の頭を打つ女むかしは男は月代といふものを剃つたものだが、それは髭を剃る以上に面倒くさいものであつた。
[#ページの左右中央]この書をわが老母と妻に[#改丁]早春の一日読書にも倦きたので、庭におりて日向ぼつこをする。
この頃咲く花に石竹があります。
夕方ふと見ると、植込の湿つぼい木かげで、真赤なまんりやうの実が、かすかに揺れてゐる。
犬養木堂の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。
欧洲大戦の時、西部戦線にゐた英軍の塹壕内では、死んだキツチナア元帥が俘虜になつて独逸にゐるといふ噂が頻りにあつた。
村井吉兵衛が伊達家の入札で幾万円とかの骨董物を買込んだといふ噂を伝へ聞いた男が、「幾ら名器だつて何万円は高過ぎよう。
少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けて或(ある)料理屋の門を出た。
米国のボストンにペン先の製造業者がある。
片山国嘉博士が名代の禁酒論者であるのは知らぬ者はない。
先日硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。
故人小杉榲邨(すぎむら)博士の遺族から売りに出した正倉院の御物が世間を騒がせてゐるが、同院が東大寺所管時代の取締がいかにぞんざいであつたかを知るものは、かうした御物が小杉博士の遺族から持ち出されたといつて、単にそれだけで博士を疑ふのはまだ早いやうに思はれる。
暗示5・中央公論かういふ話がある。
手品といふものは、余り沢山見ると下らなくなるが、一つ二つ見るのは面白いものだ。
野尻精一氏は奈良女子高等師範の校長である。
私は今上醍醐の山坊で、非時の饗応をうけてゐる。
池のほとりに来た。
すべての草木が冬枯れはてた後園の片隅に、水仙が五つ六つ花をつけてゐる。
桜こそは、春の花のうちで表現の最もすぐれたものの一つであります。
大阪に大国柏斎といふ釜師の老人が居る。
自分は今春日の山路に立つてゐる。
静かな秋の一日、午後三時頃の事でした。
私が飛鳥の里に來たのは、秋も半ばを過ぎて、そこらの雜木林は金のやうに黄いろく光つてゐた。
野も、山も、青葉若葉となりました。
佐紀の村外れから、郡山街道について南へ下ると、路の右手に當つて、熟れかかつた麥の穗並の上に、ぬつとした喜光寺の屋根が見える。
郷里にゐる弟のところから、粗末な竹籠の小荷物が、押潰されたやうになつたまま送りとどけられて来た。
私は西大寺をたづねて、一わたり愛染堂の寶物を見終つた。
秋篠寺を出て、南へとぼとぼと西大寺村へ下つて來ると、午過ぎの太陽が、容赦もなく照りつけるので、急にくらくらと眩暈(めまひ)がしさうになつて來た。
京都に住んでゐた頃、たしか花時の事だつたと思ひます。
一雨夕立が来さうな空模様でした。
また春が帰つて来た。
いろんなものを愛撫し尽した果が、石に来るといふことをよく聞いた。
前号に細川護立侯のことを書いたから、今日はその御先祖細川幽斎のことを少しく書いてみよう。
私は今夕暮近い一室のなかにひとり坐ってゐる。
私の近くにアメリカ帰りの老紳士が住んでをります。
「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」荷車曳(ひ)きの爺さんは、薄ぎたない手拭で、額の汗を拭き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。
私がじめじめした雜木の下路を通りながら、久米寺の境内へ入つて來たのは、午後の四時頃であつた。
ある歳の一月五日午後二時過ぎのことでした。
古沼の水もぬるみ、蛙もそろそろ鳴き出す頃となりました。
中央公論の二月号と三月号とに、文壇諸家の交友録が載つてゐました。
堪忍といふ事9・苦楽むかし、ある物識りが、明盲の男を戒めて、すべて広い世間の交際は、自分の一量見をがむしやらに立てようとしてはいけない、相身互ひの世の中だから、何事にも、「堪忍」の二字を忘れてはならぬと話したことがありました。
帽子***1・5サンデー毎日若い英文学者のN氏は、神戸のある高等専門学校で語学の教師をつとめてゐた。
むかし、堺衆の一人に某といふ数寄者がありました。
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