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田中貢太郎の全作品

青空文庫で公開されている田中貢太郎の全作品236篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全236件
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漁師の勘作はその日もすこしも漁がないので、好きな酒も飲まずに麦粥を啜(すす)って夕飯をすますと、地炉の前にぽつねんと坐って煙草を喫んでいた。
村に一人の男があって梨を市に売りに往ったが、すこぶる甘いうえに芳もいいので貴い値で売れた。
序記国土成生の伝説大正十二年九月一日の大地震及び地震のために発したる大火災に遭遇して、吾吾日本人は世界の地震帯に縁取られ、その上火山系の上に眠っているわが国土の危険に想到して、今さらながら闇黒な未来に恐怖しているが、しかし考えてみれば、吾吾は小学校へ入った時から、わが国土が地震と火山とに終始していて、吾吾国民の上には遁(のが)れることのできない宿命的な危険が口を開いて待っているということを教えられていたように思われる。
日本には怪談はかなりあるけれども、其の多くは仏教から胚胎した因果物語か、でなければ狐狸などの妖怪であって、独立した悪魔のような物語はあまりない。
本所のお竹蔵から東四つ目通、今の被服廠跡の納骨堂のあるあたりに大きな池があって、それが本所の七不思議の一つの「おいてけ堀」であった。
秀夫は凭(もた)れるともなしに新京橋の小さなとろとろする鉄の欄干に凭れて、周囲の電燈の燈(ひ)の映った水の上に眼をやった。
燕(えん)の恵王の墓の上に、一疋の狐と一疋の狸が棲んでいた。
怪談も生活様式の変化によって変化する。
※(きれい)三島讓(じょう)は先輩の家を出た。
ぼつぼつではあるが街路の左右に点いた街路照明の電燈の燈(ひ)を見ると菊江はほっとした。
※建久九年十二月、右大将家には、相模川の橋供養の結縁に臨んだが、その帰途馬から落ちたので、供養の人びとに助け起されて館へ帰った。
――此の話は武蔵の川越領の中の三ノ町と云う処に起った話になっているが、此の粉本は支那の怪談であることはうけあいである。
四手網俳優の木下がまだ田舎まわりの馬の脚であった時、夜、利根川の土手を歩いていると、むこうの方の川縁に時とすると黒い大きな物があがって、それが星あかりに怪しく見える。
館林の城下では女賊の噂で持ち切っていた。
A操縦士とT機関士はその日も旅客機を操って朝鮮海峡の空を飛んでいた。
新吉は公園の活動写真館の前を歩きながら、今のさき点いたばかりの白昼のような電燈の光に浮き出て見える群集の顔をじろじろ見ていたが、思い出したようにその眼を活動写真館の看板絵にやった。
宿の主将を対手にして碁を打っていた武士は、その碁にも飽いて来たので主翁を伴れて後の庭へ出た。
此の話は、私が少年の時、隣家の老人から聞いた話であります。
八月の中比で国へ帰る連中はとうに帰ってしまい、懐の暖かな連中は海岸へ往ったり山へ往ったり、東京にいるのは金のない奴か物臭か、其のあたりのバーの女給にお思召をつけている奴か、それでなければ僕等のように酒ばかり飲み歩いている奴ばかりなのでしたよ。
※(きれい)山根謙作は三の宮の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。
昼間のうちは石ばりをしたようであった寒さが、夕方からみょうにゆるんでいる日であった。
この話は長谷川伸君から聞いた話であるが、長谷川君は日露役の際、即ち明治三十七年の暮に、補充兵として国府台の野砲連隊へ入営した。
明治二年七月八日発行の明治新聞と云うのに、浜田藩の淀藤十郎と云うのが、古著屋からであろう、蚊帳を買って来て、それを釣って寝たところで、その夜の半夜頃、枕頭へ女の姿があらわれた。
村の男は手ごろの河原石を持って岩の凹みの上で、剥(は)いだ生樹の皮をびしゃびしゃと潰していた。
ニコリフスクに恐ろしい殺戮の起った時分のことであった。
玄関の格子戸がずりずりと開いて入って来た者があるので、順作は杯を持ったなりに、その前に坐った女の白粉をつけた眼の下に曇のある顔をちょと見てから、右斜にふりかえって玄関のほうを見た。
谷崎潤一郎氏に人面疽のことを書いた物語がある。
――支那の四川省の奥で修業をしたと云うんだ。
芝公園大門脇に『わかもと』の本舗がある。
小説家の山中峯太郎君が、広島市の幟町にいた比のことであった。
大久保相模守は板倉伊賀守と床几を並べて、切支丹の宗徒の手入を検視していた。
※(ぎれい)私はこの四五年、欲しい欲しいと思っていた「子不語」を手に入れた。
赤インキの滲んだやうな暑い陽の光があつた。
某夜、某運転手が護国寺の墓地を通っていると、白い小犬を抱いた女が来て車を停めた。
コクリと云う遊戯は、海外から渡来したものであって、渡来期は正確には判らないが、明治十六年比、米国船が伊豆の下田へ寄港した時、水夫の一人がそれを伝えたと云われている。
某相場師の娘が、父親にねだって買ってもらった衣服を、知りあいの裁縫師の処へ縫わしにやった。
夕月が射して虫が鳴いていた。
母親を無くした小供が、ある夜、ふと眼を覚ました。
昭和九年の夏、横井春野君が三田稲門戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた令弟の夫人から、「病気危篤、すぐ来い」と云う電報が来た。
品川駅の近くに魔の踏切と云われている踏切がある。
旧幕の比であった。
洋画家の橋田庫次君の話であるが、橋田君は少年の頃、吾川郡の弘岡村へ使いに往って、日が暮れてから帰って来たが、途中に荒倉と云う山坂があって、そこには鬼火が出るとか狸がいるとかと云うので、少年の橋田君は鬼魅がわるかった。
昭和十年九月二十八日の夜の八時比、駒込神明町行の市電が、下谷池の端の弁天前を進行中、女の乗客の一人が、何かに驚いたように不意に悲鳴をあげて、逃げ出そうとでもするようにして上半身を窓の外へ出したところで、そこにあったセンターポールで顔を打って昏倒した。
長谷川時雨女史の実験談であるが、女史が佃島にいた比、令妹の春子さんが腸チブスに罹(かか)って離屋の二階に寝ていたので、その枕頭につきっきりで看護していた。
※「今日も負かしてやろうか」相場三左衛門はそう云ってから、碁盤を中にして己と向いあっている温泉宿の主翁の顔を見て笑った。
義直は坂路をおりながらまた叔父のことを考へた。
源吉は薄青い月の光を沿びて砂利の交つた砂路を歩いてゐた。
給仕女のお菊さんは今にもぶらりとやつて来さうに思はれる客の来るのを待つてゐた。
漢の時、東華郡の陳司空が死んで葬っておくと、一年ばかりして不意に家へ帰ってきた。
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