ブンゴウサーチ
児童書版
TOP 寺田寅彦 全作品

寺田寅彦の全作品(4ページ目)

青空文庫で公開されている寺田寅彦の全作品285篇を、おすすめ人気順で表示しています。

151〜200件 / 全285件
Tweet
作品名
著者
読了時間
人気
同じ展覧会を見て歩くのでも、単に絵を見て味わい楽しもうという心持で見るのと、何かしら一つ批評でもしてみようという気で見るのとでは、見る時の頭の働き方が違うだけに、その頭に残る印象にもかなりの差があり得る訳である。
スカンジナヴィアの遠い昔の物語が、アイスランド人の口碑に残って伝えられたのを、十二世紀の終わりにスノルレ・スツール・ラソンという人が書きつづった記録が Heimskringla という書物になって現代に伝えられている。
真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕(かめ)の底のおりのように層積している。
十二月始めのある日、珍しくよく晴れて、そして風のちっともない午前に、私は病床から這(は)い出して縁側で日向ぼっこをしていた。
浮世絵というものに関する私の知識は今のところはなはだ貧弱なものである。
東京××大学医学部附属病院、整形外科病室第N号室。
大正八年十二月五日晴金曜二、三日前から風心持であったが、前日は午前に気象と物理の講義があったから出勤した。
ウェルダアの桜大きな河かと思うような細長い湖水を小蒸気で縦に渡って行った。
大学の池のまわりも、去年の火事で、だいぶ様子が変わってしまった。
猫が庭へ出て用を便じようとしてまず前脚で土を引っかき小さな穴を掘起こして、そこへしゃがんで体の後端部をあてがう。
電車停留場のプラットフォームに「安全地帯」と書いた建札が立っている。
今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。
九月三日は朝方荒い雨が降った、やがて止んだが重苦しい蒸暑さがじりじりと襲って来た。
耳も目も、いずれも二つずつ、われわれの頭の頂上からほぼ同じ距離だけ下がった所に開いている。
パーロの嫁取り北極探検家として有名なクヌート・ラスムッセンが自ら脚色監督したもので、グリーンランドにおけるエスキモーの生活の実写に重きをおいたものらしいので、そうした点で興味の深い映画である。
明治二十年代の事である。
漫画とは何かという問に対して明確なる定義を下す事は困難であろう。
時の観念に関しては、哲学者の側でいろいろ昔からむつかしい議論があったようである。
一月中旬のある日の四時過ぎに新宿の某地下食堂待合室の大きな皮張りの長椅子の片すみに陥没して、あとから来るはずの友人を待ち合わせていると、つい頭の上近くの天井の一角からラジオ・アナウンサーの特有な癖のある雄弁が流れ出していた。
十二月三十一日、今年を限りと木枯しの強く吹いた晩、本郷四丁目から電車を下りて北に向うた忙がしい人々の中にただ一人忙がしくない竹村運平君が交じっていた。
二階の縁側のガラス戸のすぐ前に大きな楓(かえで)が空いっぱいに枝を広げている。
西洋では五月に林檎やリラの花が咲き乱れて一年中でいちばん美しい自然の姿が見られる地方が多いようである。
明治二十七八年の頃K市の県立中学校に新しい英語の先生が赴任して来た。
随筆は思ったことを書きさえすればよいのであるから、その思ったことがどれほど他愛のないことであっても、またその考えがどんなに間違った考えであっても、ただ本当にそう思ったことをその通り忠実に書いてありさえすればその随筆の随筆としての真実性には欠陥はないはずである。
始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。
ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。
旧臘押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。
教育資料としての映画の価値の多大なことは誰でも認めてはいるようであるが、しかしこの問題については、少なくも我邦では、まだあまり十分に研究されていないか、ともかくも一般的興味の対象とはなっていないようである。
何事でも「世界第一」という名前の好きなアメリカに、レコード熱の盛んなのは当然のことであるが、一九二九年はこのレコード熱がもっとも猖獗(しょうけつ)をきわめた年であって、その熱病が欧州にまでも蔓延した。
風呂の寒暖計今からもう二十余年も昔の話であるが、ドイツに留学していたとき、あちらの婦人の日常生活に関係した理化学的知識が一般に日本の婦人よりも進んでいるということに気のついた事がしばしばあった。
子供の時分の冬の夜の記憶の中に浮上がって来る数々の物象の中に「行燈」がある。
今年の春の花の頃に一日用があって上野の山内へ出かけて行った。
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだようで、静かな宵闇の重く湿った空に、どこかの汽笛が長い波線を引く。
祖母は文化十二年(一八一五)生まれで明治二十二年(一八八九)自分が十二歳の歳末に病没した。
あるきわめて蒸し暑い日の夕方であった。
理化学の進歩が国運の発展に緊要であるという事は永い間一部の識者によって唱えられていたが、時機の熟せなかったため一向に世間には顧みられなかった。
明治十四年の夏、当時名古屋鎮台につとめていた父に連れられて知多郡の海岸の大野とかいうところへ「塩湯治」に行った。
自分の出生地は高知県で、始め中学の入学試験に応じたのは十四の年、ちょうど高等三年生の時であった。
このごろ時々写真機をさげて新東京風景断片の採集に出かける。
銀座を歩いていたら、派手な洋装をした若い女が二人、ハイヒールの足並を揃えて遊弋していた。
電車の中で試みに同乗の人々の顔を注意して見渡してみると、あまり感じの好い愉快な顔はめったに見当らない。
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。
科学上における権威の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。
上野の近くに人を尋ねたついでに、帝国美術院の展覧会を見に行った。
宅のラジオ受信機は去年の七月からかれこれ半年ほどの間絶対沈黙の状態に陥ったままで、茶の間の茶箪笥の上に乗っかったきりになっていた。
物には必ず物理がある。
稲妻晴れた夜、地平線上の空が光るのをいう。
去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出かけて行った。
朝食の食卓で偶然箱根行の話が持上がって、大急ぎで支度をして東京駅にかけつけ、九時五十五分の網代行に間に合った。
涼しさと暑さこの夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。
マークのついた作品は著作権が存続しています。 詳細は 青空文庫公式サイトの取り扱い基準 をご確認のうえ、取り扱いの際は十分注意してください。