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紫式部の全作品

青空文庫で公開されている紫式部の全作品56篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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紫のかがやく花と日の光思ひあはざることわりもなし(晶子)どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。
春の野のうらわか草に親しみていとおほどかに恋もなりぬる(晶子)源氏は瘧病にかかっていた。
うき夜半の悪夢と共になつかしきゆめもあとなく消えにけるかな(晶子)源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった大弐の乳母を訪ねようとして、五条辺のその家へ来た。
なほ春のましろき花と見ゆれどもともに死ぬまで悲しかりけり(晶子)紫夫人はあの大病以後病身になって、どこということもなく始終煩っていた。
恨めしと人を目におくこともこそ身のおとろへにほかならぬかな(晶子)天子が新しくお立ちになり、時代の空気が変わってから、源氏は何にも興味が持てなくなっていた。
中川の皐月の水に人似たりかたればむせびよればわななく(晶子)光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。
人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ(晶子)当帝の外戚の大臣一派が極端な圧迫をして源氏に不愉快な目を見せることが多くなって行く。
うつせみのわがうすごろも風流男に馴(な)れてぬるやとあぢきなきころ(晶子)眠れない源氏は、「私はこんなにまで人から冷淡にされたことはこれまでないのだから、今晩はじめて人生は悲しいものだと教えられた。
明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし(晶子)薫は山の延暦寺に着いて、常のとおりに経巻と仏像の供養を営んだ。
わりなくもわかれがたしとしら玉の涙をながす琴のいとかな(晶子)まだ雨風はやまないし、雷鳴が始終することも同じで幾日かたった。
皮ごろも上に着たれば我妹子は聞くことのみな身に沁(し)まぬらし(晶子)源氏の君の夕顔を失った悲しみは、月がたち年が変わっても忘れることができなかった。
若やかにうぐひすぞ啼(な)く初春の衣くばられし一人のやうに(晶子)新春第一日の空の完全にうららかな光のもとには、どんな家の庭にも雪間の草が緑のけはいを示すし、春らしい霞(かすみ)の中では、芽を含んだ木の枝が生気を見せて煙っているし、それに引かれて人の心ものびやかになっていく。
たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天よりこしをうたがはねども(晶子)あの六条院の行幸のあった直後から朱雀院の帝は御病気になっておいでになった。
春の夜のもやにそひたる月ならん手枕かしぬ我が仮ぶしに(晶子)二月の二十幾日に紫宸殿の桜の宴があった。
青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども(晶子)朱雀院の行幸は十月の十幾日ということになっていた。
けざやかにめでたき人ぞ在ましたる野分が開くる絵巻のおくに(晶子)中宮のお住居の庭へ植えられた秋草は、今年はことさら種類が多くて、その中へ風流な黒木、赤木のませ垣が所々に結われ、朝露夕露の置き渡すころの優美な野の景色を見ては、春の山も忘れるほどにおもしろかった。
五十鈴川神のさかひへのがれきぬおもひあがりしひとの身のはて(晶子)斎宮の伊勢へ下向される日が近づけば近づくほど御息所は心細くなるのであった。
つま戸より清き男の出づるころ後夜の律師のまう上るころ(晶子)一人の夫人の忠実な良人という評判があって、品行方正を標榜していた源左大将であったが、今は女二の宮に心を惹(ひ)かれる人になって、世間体は故人への友情を忘れないふうに作りながら、引き続いて一条第をお訪ねすることをしていた。
姫たちは常少女にて春ごとに花あらそひをくり返せかし(晶子)ここに書くのは源氏の君一族とも離れた、最近に亡くなった関白太政大臣の家の話である。
さくら散る春の夕のうすぐもの涙となりて落つる心地に(晶子)冬になって来て川沿いの家にいる人は心細い思いをすることが多く、気の落ち着くこともない日の続くのを、源氏も見かねて、「これではたまらないだろう、私の言っている近い家へ引っ越す決心をなさい」と勧めるのであったが、「宿変へて待つにも見えずなりぬればつらき所の多くもあるかな」という歌のように、恋人の冷淡に思われることも地理的に斟酌をしなければならないと、しいて解釈してみずから慰めることなども...
橘(たちばな)も恋のうれひも散りかへば香をなつかしみほととぎす鳴く(晶子)みずから求めてしている恋愛の苦は昔もこのごろも変わらない源氏であるが、ほかから受ける忍びがたい圧迫が近ごろになってますます加わるばかりであったから、心細くて、人間の生活というものからのがれたい欲求も起こるが、さてそうもならない絆(ほだし)は幾つもあった。
道もなき蓬(よもぎ)をわけて君ぞこし誰にもまさる身のここちする(晶子)源氏が須磨、明石に漂泊っていたころは、京のほうにも悲しく思い暮らす人の多数にあった中でも、しかとした立場を持っている人は、苦しい一面はあっても、たとえば二条の夫人などは、源氏が旅での生活の様子もかなりくわしく通信されていたし、便宜が多くて手紙を書いて出すこともよくできたし、当時無官になっていた源氏の無紋の衣裳も季節に従って仕立てて送るような慰みもあった。
みをつくし逢(あ)はんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてまつるらん(晶子)須磨の夜の源氏の夢にまざまざとお姿をお現わしになって以来、父帝のことで痛心していた源氏は、帰京ができた今日になってその御菩提を早く弔いたいと仕度をしていた。
逢坂は関の清水も恋人のあつき涙もながるるところ(晶子)以前の伊予介は院がお崩れになった翌年常陸介になって任地へ下ったので、昔の帚木もつれて行った。
あひがたきいつきのみことおもひてきさらに遥(はる)かになりゆくものを(晶子)前斎宮の入内を女院は熱心に促しておいでになった。
みづからはあるかなきかのあさがほと言ひなす人の忘られぬかな(晶子)斎院は父宮の喪のために職をお辞しになった。
二ごころたれ先づもちてさびしくも悲しき世をば作り初めけん(晶子)小侍従が書いて来たことは道理に違いないがまた露骨なひどい言葉だとも衛門督には思われた。
盛りなる御代の后に金の蝶(てふ)しろがねの鳥花たてまつる(晶子)三月の二十日過ぎ、六条院の春の御殿の庭は平生にもまして多くの花が咲き、多くさえずる小鳥が来て、春はここにばかり好意を見せていると思われるほどの自然の美に満たされていた。
あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴をとればおなじ音を弾く(晶子)東の院が美々しく落成したので、花散里といわれていた夫人を源氏は移らせた。
雁(かり)なくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと(晶子)春になって女院の御一周年が過ぎ、官人が喪服を脱いだのに続いて四月の更衣期になったから、はなやかな空気の満ち渡った初夏であったが、前斎院はなお寂しくつれづれな日を送っておいでになった。
身にしみて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きてとぶ(晶子)源氏の現在の地位はきわめて重いがもう廷臣としての繁忙もここまでは押し寄せて来ず、のどかな余裕のある生活ができるのであったから、源氏を信頼して来た恋人たちにもそれぞれ安定を与えることができた。
ひと時は目に見しものをかげろふのあるかなきかを知らぬはかなき(晶子)宇治の山荘では浮舟の姫君の姿のなくなったことに驚き、いろいろと捜し求めるのに努めたが、何のかいもなかった。
大きなるまゆみのもとに美しくかがり火もえて涼風ぞ吹く(晶子)このごろ、世間では内大臣の新令嬢という言葉を何かのことにつけては言うのを源氏の大臣は聞いて、「ともかくも深窓に置かれる娘を、最初は大騒ぎもして迎えておきながら、今では世間へ笑いの材料に呈供しているような大臣の気持ちが理解できない。
露置きてくれなゐいとど深けれどおもひ悩めるなでしこの花(晶子)炎暑の日に源氏は東の釣殿へ出て涼んでいた。
火のくににおひいでたれば言ふことの皆恥づかしく頬(ほ)の染まるかな(晶子)年月はどんなにたっても、源氏は死んだ夕顔のことを少しも忘れずにいた。
ほど近き法の御山をたのみたる女郎花かと見ゆるなりけれ(晶子)そのころ比叡の横川に某僧都といって人格の高い僧があった。
かきくらす涙か雲かしらねどもひかり見せねばかかぬ一章(晶子)[#「雲隠れ」の帖は冒頭の晶子詞のみで本文はありません。
大空の日の光さへつくる世のやうやく近きここちこそすれ(晶子)春の光を御覧になっても、六条院の暗いお気持ちが改まるものでもないのに、表へは新年の賀を申し入れる人たちが続いて参入するのを院はお加減が悪いようにお見せになって、御簾の中にばかりおいでになった。
何よりも危ふきものとかねて見し小舟の中にみづからを置く(晶子)兵部卿の宮は美しい人をほのかに御覧になったあの秋の夕べのことをどうしてもお忘れになることができなかった。
むらさきのふぢばかまをば見よといふ二人泣きたきここち覚えて(晶子)尚侍になって御所へお勤めするようにと、源氏はもとより実父の内大臣のほうからも勧めてくることで玉鬘は煩悶をしていた。
雪ちるや日よりかしこくめでたさも上なき君の玉のおん輿(こし)(晶子)源氏は玉鬘に対してあらゆる好意を尽くしているのであるが、人知れぬ恋を持つ点で、南の女王の想像したとおりの不幸な結末を生むのでないかと見えた。
死ぬる日を罪むくいなど言ふきはの涙に似ざる火のしづくおつ(晶子)右衛門督の病気は快方に向くことなしに春が来た。
帰りこし都の家に音無しの滝はおちねど涙流るる(晶子)恋しさのおさえられない大将はまたも小野の山荘に宮をお訪ねしようとした。
すずむしは釈迦牟尼仏のおん弟子の君のためにと秋を浄むる(晶子)夏の蓮(はす)の花の盛りに、でき上がった入道の姫宮の御持仏の供養が催されることになった。
天地に春新しく来たりけり光源氏のみむすめのため(晶子)源氏が十一歳の姫君の裳着の式をあげるために設けていたことは並み並みの仕度でなかった。
早蕨の歌を法師す君に似ずよき言葉をば知らぬめでたさ(晶子)「日の光林藪しわかねばいそのかみ古りにし里も花は咲きけり」と言われる春であったから、山荘のほとりのにおいやかになった光を見ても、宇治の中の君は、どうして自分は今まで生きていられたのであろうと、現在を夢のようにばかり思われた。
ふぢばなのもとの根ざしは知らねども枝をかはせる白と紫(晶子)六条院の姫君が太子の宮へはいる仕度でだれも繁忙をきわめている時にも、兄の宰相中将は物思いにとらわれていて、ぼんやりとしていることに自身で気がついていた。
こひしさも悲しきことも知らぬなり真木の柱にならまほしけれ(晶子)「帝のお耳にはいって、御不快に思召すようなことがあってもおそれおおい。
春の日の光の名残花ぞのに匂ひ薫ると思ほゆるかな(晶子)光君がおかくれになったあとに、そのすぐれた美貌を継ぐと見える人は多くの遺族の中にも求めることが困難であった。
うぐひすも問はば問へかし紅梅の花のあるじはのどやかに待つ(晶子)今按察使大納言といわれている人は、故人になった太政大臣の次男であった。
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