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長谷川時雨の全作品

青空文庫で公開されている長谷川時雨の全作品87篇を、おすすめ人気順で表示しています。

1〜50件 / 全87件
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ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。
シヤガールの裸の女の繪を床の間においた。
空の麗しさ、地の美しさ、万象の妙なる中に、あまりにいみじき人間美は永遠を誓えぬだけに、脆(もろ)き命に激しき情熱の魂をこめて、たとえしもない刹那の美を感じさせる。
まあ!この碧(あお)い海水の中へ浸ったら体も、碧く解けてしまやあしないだろうか――お雪は、ぞっとするほど碧く澄んだ天地の中に、呆(ぼん)やりとしてしまった。
もうやがて二昔に近いまえのことでした。
大正八年一月五日の黄昏時に私は郊外の家から牛込の奥へと来た。
水油なくて寢る夜や窓の月(芭蕉)の句は、現代のものには、ちよつとわかりにくいほど、その時代、またその前々代の、古い人間生活と、菜の花との緊密なつながりを語つてゐる。
これは私の父が、幼いころの気味の悪るかったことという、談話のおりにききましたことです。
寫眞を出して並べたわたくしの顏は、どれもこれも、みんな違つてゐる。
松岡映丘畫伯の晩年の作によく見えた丘の段々畑。
一人は太古からかれない泥沼の底の主、山椒の魚でありたいといひ、ひとりは、夕暮、または曉に、淡く、ほの白い、小さな水藻の花でありたいと言ふ、こんな二人。
湖、青森あたりだとききました、越中から出る薬売りが、蓴菜が一ぱい浮いて、まっ蒼(さお)に水銹の深い湖のほとりで午寐をしていると、急に水の中へ沈んでゆくような心地がしだしたので、変だと思っていると、何処でか幽かに糸車を廻す音がきこえたともうします。
六歳のをり、寺小屋式の小學校へはいりまして、その年の暮か、または一二年たつてかのお席書きに、「南山壽」といふのを覺えました。
大川は、東京下町を兩斷して、まつすぐに流れてゐる。
趣味とは、眺めてゐるものと、觸(さ)はつて見るもの、觸(ふ)れなければ堪能できないものと、心に養つてゐるものとがある。
十五夜の宵だつた。
隨筆家としての岡本綺堂を語れといはれて、「明治劇談・ランプの下にて」の中の、ある一章を思ひ出した。
直木さん、いつまでも、三十一、三十二、三十三、三十四とするのときいたら、うんといつた。
お灸(きう)ずきの祖母が日に二三度づつお灸をすゑる。
秋雨のうすく降る夕方だつた。
腸を拂ふと欝血散じ、手足も暖まり頭輕く、肩張りなんぞ飛んでゆくと、三上の友人が漢方醫を同道されて、藥効神のごとしといふ煎藥をすすめてゆかれたので、わたしはそれを一服、ちよつと失禮して見た。
江東水の江村の、あのおびただしい蓮が、東京灣の潮がさして枯れさうだといふ、お米も枯れてしまつたといふ、葛飾の水郷もさうして、だん/″\と工場町になるのだらう。
着ものをきかへようと、たたんであるのをひろげて、肩へかけながら、ふと、いつものことだが古への清少納言のいつたことを、身に感じて袖に手を通した。
坪内先生は、御老齢ではあったけれど、先生の死などということを、考えもしなかったのは我ながら不覚だった。
暗の夜更にひとりかへる渡し船、殘月のあしたに渡る夏の朝、雪の日、暴風雨の日、風趣はあつてもはなしはない。
暗い鏡鏡といふものをちやんと見るやうになつたのは、十八――九の年頃だつたと思ひます。
鏡花先生の御作を私が好きだつた理由は、魂を無何有の郷へ拔いていつて貰へることでした。
鰹といふと鎌倉で漁れて、江戸で食べるといふふうになつて、賣るも買ふも、勇み肌の代表のやうになつてゐるが、鰹は東南の海邊では、どこでも隨分古くから食用になつてゐる上に、鰹節の製造されたのも古いと見えて、社の屋根の鰹木は、鰹節をかたどつたものだと、「舍屋の上に堅魚を」と古事記にあれば、水の江の浦島の子をよめる萬葉の長歌には春の日の霞める時に住吉の、岸に出でゐて釣船の、とをらふ見れば古の事ぞ思ほゆ、水の江の浦島の兒が堅魚釣り、鯛釣りほこり七日まで――と、魚の王鯛と同格...
ある日、婦人ばかりといつてよい招待の席で、小林一三氏が、吉屋信子さんの新築の家を絶讃された。
庭木の植込みの間に、桑の細い枝が見える。
出征文人の一員、林芙美子のリユツクサツクのなかへはいつて[#「はいつて」は底本では「はついて」]、わたしの心持も行くといふと奇矯にきこえるが、わたくしの兵隊さん慰問文が、おぶつていつてもらふことになつた。
そのころ、義弟の住居は、東三條胡同といふ、落着いた小路にあつて、名優梅蘭芳の邸とおなじ側にあつたが、前住のふらんす婦人の好みで、多少ふらんす風に改築された支那家屋だつた。
兩國といへばにぎわ敷所と聞ゆれどこゝ二洲橋畔のやゝ上手御藏橋近く、一代の富廣(ひろ)き庭廣き家々もみちこほるゝ富人の構えと、昔のおもかげ殘る武家の邸つゞきとの片側町、時折車の音の聞ゆるばかり、春は囘向院の角力の太鼓夢の中に聞て、夏は富士筑波の水彩畫を天ねむの後景として、見あかぬ住居さりとて向島根岸の如き不自由は無、娘が望かなひ、かの殿の内君とならば向河岸に隱宅立てゝと望は、あながち河向ひの唄女らが母親達のみの夢想にもあらぬぞかし。
一夏、そのころ在阪の秋江氏から、なるみの浴衣の江戸もよいが、上布を着た上方の女の夏姿をよりよしと思ふといふ葉書が來たことがある。
あたしの古郷のおとめといえば、江戸の面影と、香を、いくらか残した時代の、どこか歯ぎれのよさをとどめた、雨上りの、杜若のような下町少女で、初夏になると、なんとなく思出がなつかしい。
江戸の女を語るには、その階級から語らなければならない。
大東京の魅力に引かれ、すつかり心醉しながら、郷里の風光に思ひのおよぼすときになると、東京をみそくそにけなしつける人がある。
むさしのの草に生れし身なればやくさの花にぞこころひかるると口ずさんだりしたが、「わたしの前生はルンペンだつたのかしらん。
今朝昨夜、空を通つた、足の早い風は、いま何處を吹いてゐるか!あの風は、殘つてゐたふゆを浚つて去つて、春の來た今朝は、誰もが陽氣だ。
ふと、ある日、菜の花のお漬けものがございますかとAさんにお目にかかつたとき、關西の郊外の話から、お訊ねしたことがあつた。
最近三、五年、モダーンという言葉の流行は、すべてを風靡しつくして、ことに美女の容姿に、心に、そのモダンぶりはすさまじい勢いである。
十二月廿五日夜、東京日日新聞主催の「大東京座談會」の席上で、復興の途上にある大東京は、最初の豫算三十億の時から十億に削られた時まで、一千萬圓の國立劇場建築費が保存されてあつたが、終に最後の七億になつて消滅してしまつたといふことを、復興局長官の堀切善次郎氏によつて語られた。
暗い窓から地球が吸ひよせる雨――そんなふうな降りだ。
この章にうつろうとして、あんぽんたんはあまりあんぽんたんであった事を残念に思う。
明治廿二年二月の憲法発布の日はその夜明けまで雪が降った。
朝散太夫とは、支那唐朝の制にて従五品下の雅称、我国にて従五位下の唐名とある。
その時分、白米の價(あたひ)が、一等米圓に七升一合、三等米七升七合、五等米八升七合。
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