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岡本綺堂の全作品(2ページ目)

青空文庫で公開されている岡本綺堂の全作品230篇を、おすすめ人気順で表示しています。

51〜100件 / 全230件
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夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑なんどの狼籍たるを踏みて、眠れる銀座の大通にたたずめば、ここが首府の中央かと疑わるるばかりに、一種荒凉の感を覚うれど、夜の衣の次第にうすくかつ剥(は)げて、曙(あけぼの)の光の東より開くと共に、万物皆生きて動き出ずるを見ん。
今の劇壇、それはこのままでいいと思う。
住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。
私は玩具が好です、幾歳になっても稚気を脱しない故かも知れませんが、今でも玩具屋の前を真直には通り切れません、ともかくも立停って一目ずらりと見渡さなければ気が済まない位です。
江戸時代の怪談劇は、大抵六、七、八の三月のあいだを択んで上場されたようである。
ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
何といってもこの頃は読書子に取っては恵まれた時代である。
十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田の三崎町まで出かけた。
三月二十日、土曜日。
わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。
青蛙堂は小石川の切支丹坂、昼でも木立ちの薄暗いところにある。
久しぶりで麹町元園町の旧宅地附近へ行って見た。
頃は安政の末、内藤家(延岡藩)の江戸邸に福島金吾という武士があった、この男、剣術柔術が得意で、随って気象も逞しい人物で、凡そ世の中に怖い物無しと誇っていたが、或時測らず一種の妖怪に出逢って、なるほど世には不思議もあるものだと流石に舌を巻いたと云う。
都は花落ちて、春漸く暮れなんとする四月二十日、森青く雲青く草青く、見渡すかぎり蒼茫(そうぼう)たる青山の共同墓地に入りて、わか葉の扇骨木籬まだ新らしく、墓標の墨の痕乾きもあえぬ父の墓前に跪(ひざまず)きぬ。
栗の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。
安政の大地震の翌る年の事で、麻布の某藩邸に一種の不思議が起った。
大正九年十月九日、甥の石丸英一逝く。
◇わが国古来のいわゆる「かたき討」とか、「仇討」とかいうものは、勿論それが復讎を意味するのではあるが、単に復讎の目的を達しただけでは、かたき討とも仇討とも認められない。
六月二十八日の午後六時、ハイド・パークの椅子によりながら講和条約調印の号砲を聞いた。
これは小生の父が、眼前に見届けたとは申し兼るが、直接にその本人から聞取った一種の怪談で今はむかし文久の頃の事。
このごろ少しく調べることがあって、支那の怪談本――といっても、支那の小説あるいは筆記のたぐいは総てみな怪談本といっても好いのであるが――を猟ってみると、遠くは『今昔物語』、『宇治拾遺物語』の類から、更に下って江戸の著作にあらわれている我国の怪談というものは、大抵は支那から輸入されている。
五分間用があって兜町の紅葉屋へ行く。
わたしは帝劇のために「小坂部姫」をかいた。
白人劇の忠臣蔵や菅原はかねて噂には聞いていましたが、今度米国へ渡って来て、あたかもそれを見物する機会を得ました。
田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。
七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄(にわか)に痛み出した。
目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸過ぎから花壇の種蒔きをはじめた。
震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。
十年ぶりで三島駅から大仁行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。
今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿らしている。
『戯場訓蒙図彙』や『東都歳事記』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。
上「来年は丑(うし)だそうですが、何か牛に因んだようなお話はありませんか。
明治時代の湯屋について少しく調べたいことがあったので旧い雑記帳を引っくり返したり、旧い記憶を呼び起したりした。
なんだか頭がまだほんとうに落ちつかないので、まとまったことは書けそうもない。
九月の末におくれ馳(ば)せの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。
池袋の女江戸の代表的怪談といえば、まず第一に池袋の女というものを挙げなければなりません。
赤蜻蛉私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。
六月七日、午前六時頃にベッドを這い降りて寒暖計をみると八十度。
柳のかげ海に山に、凉風に浴した思い出も色々あるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。
「海老の天ぷら、菜のひたしもの、蠣(かき)鍋、奴豆腐、えびと鞘豌豆の茶碗もり――こういう料理をテーブルの上にならべられた時には、僕もまったく故郷へ帰ったような心持がしましたよ。
「こんなことを申上げますと、なんだか嘘らしいやうに思召すかも知れませんが、これはほんたうの事で、わたくしが現在出会つたのでございますから、どうか其(その)思召でお聴きください。
草花と果物盂蘭盆の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆(たお)れた。
「こんなことを申しますと、なんだか嘘らしいように思召すかも知れませんが、これはほんとうの事で、わたくしが現在出会ったのでございますから、どうかその思召しでお聞きください。
今度はわたしの番になった。
大田蜀山人の「一話一言」を読んだ人は、そのうちにこういう話のあることを記憶しているであろう。
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