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佐藤垢石の全作品(2ページ目)

青空文庫で公開されている佐藤垢石の全作品95篇を、おすすめ人気順で表示しています。

51〜95件 / 全95件
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緑樹のかげに榻(とう)(こしかけ)を寄せて、麥酒の満をひく時、卓上に香魚の塩焙があったなら涼風おのずから涎(よだれ)の舌に湧くを覚えるであろう。
私の父親は、近村近郷きつての呑ん平であつた。
私は、呑んべえであるから、酒の肴にはいつも苦労する。
それからというもの、私は暇さえあれば諸国を釣り歩いた。
いよいよ、私は食いつめた。
鱸(すずき)は八十八夜過ぎると、河に向うそうである。
十五、六歳になってからは、しばらく釣りから遠ざかった。
私に、どこかうまい釣場へ連れて行ってくれと申し込んでくる人があると、私はその人を自分の弟子の数のうちへ勘定する。
食事が、必要から好厭に分かれ、さらに趣味にまで進んできたのは、既に五千年の昔であるのを古代支那人が料理書に記している。
上議会中、一日くらいは傍聴席へはいってみるのも国民のつとめであろう。
蕎麥は、春蕎麥よりも秋蕎麥の方が、味香共に豊かであると昔からいわれているが、その理屈はともかくとして、このほど上州赤城の中腹室沢の金子豊君から贈って貰った秋蕎麥は、近年まれにおいしかった。
先日、長野県下水内郡水内村森宮の原の雪野原で行なわれたラジオ映画社の「人食い熊」の野外撮影を見物に行ったとき、飯山線の森宮の原駅の旅館で、この地方きっての熊撃ちの名人に会った。
鮎が水垢をなめて育つのは誰でも知っている。
人生の旅これは、私が十八、九歳のころ考えたことである。
人は常識的には、太平洋へ注ぐ表日本の川の水温よりも、日本海へ注ぐ裏日本の川の水温方が低いであろうと、考えるにちがいない。
このほど、御手洗蝶子夫人から、『ただいま、すっぽんを煮ましたから、食べにきませんか』と、言うたよりに接した。
越後と上州の国境をなす谷川岳と茂倉岳を結ぶ背面の渓谷に源を発し、八海山と越後駒ヶ岳の裾を北流して新潟県北魚沼郡川口村で信濃川に合する魚野川の川鮎は、近年にわかに都会人の食趣に、その美旨の味品が注目されるようになった。
二、三日前、隣村の嘉平老が、利根川で蜂鱒を拾った。
私は利根川の水に生まれ、利根川の水に育った。
篠秋痘鳴と山田論愚の二人が南支方向へ行くことになった。
呉清源は今や棋聖といつてよからう。
悲しき副膳のお肴万延元年の四月の末の方、世はもう、青葉に風が光る初夏の候であった。
伊勢へななたび熊野へさんど、という文句があるが、私は今年の夏六月と八月の二度、南紀新宮の奥、瀞八丁の下手を流れる熊野川へ、鮎を訪ねて旅して行った。
私は、昭和のはじめ、世の中が一番不景気の時代に失職してしまった。
はなしのはじめは三木武吉と頼母木桂吉の心臓の出来あんばいから語りだすことにしよう。
このほど、最上川の支流小国川の岸辺から湧く瀬見温泉へ旅したとき、宿で鰍(かじか)の丸煮を肴(さかな)に出してくれた。
この正月の、西北の風が吹くある寒い朝、ちょっとした用事があって、両国橋を西から東へわたったことがあった。
私のように、長い年月諸国へ釣りの旅をしていると、時々珍しい話を聞いたり、また自らも興味のある出来ごとに誘い込まれたりすることもあるものだ。
私は、娘を盗まれたことがある。
『斉正、その方は七面鳥を持っているか』鍋島斉正が登城したとき、将軍家定がだしぬけにこんな質問を発したから斉正は面喰らった。
このほど、友人が私のところへやってきて、君は釣り人であるから、魚類はふんだんに食っているであろうが、まだ羆(ひぐま)の肉は食ったことはあるまい。
僕は、大概の大物釣には経験を持っている。
葵原夫人は、素晴らしい意気込みである。
この一文は昭和十四年四月、京城日報社の招きにより、将棋の名人木村義雄氏と共に、半島の各地を歩いた記録である。
鯨と名のつくものなら、大抵は食べたことがある。
奥山の仙水に、山女魚を釣るほんとうの季節がきた。
近年、お正月の門松の林のなかに羽織袴をつけた酔っ払いが、海豚が岡へあがったような容でぶっ倒れている風景にあまり接しなくなったのは年始人お行儀のために、まことに結構な話である。
私に董仲舒ほどの学があれば、名偈の一句でも吐いて、しゃもじ奴に挑戦してみるのであったが、凡庸の悲しさ、ただ自失して遁走するの芸当しか知らなかったのは、返す返すも残念である。
五千両の[#「五千両の」は底本では「五十両の」]無心慶応二年師走のある寒い昧暗、芝増上寺の庫裏を二人の若い武士が襲った。
私は、この三月七日に、故郷の村へ移り住んだ。
大寒に入って間もない頃、越後国岩船郡村上町の友人から、野狸の肉と、月の輪熊の肉が届いた。
昨年の霜月のなかばごろ、私はひさしぶりに碓氷峠を越えて、信濃路の方へ旅したのである。
石坂家は、大利根川と榛名山と浅間火山との間に刻む渓谷に水源を持つ烏川とが合流する上州佐波郡芝根村沼之上の三角州の上に、先祖代々農を営む大地主である。
二、三日前、紀州熊野の山奥に住む旧友から、久し振りに手紙がきた。
南紀の熊野川で、はじめて鮎の友釣りを試みたのは、昭和十五年の六月初旬であった。
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