ブンゴウサーチ
児童書版
TOP 岸田国士 短編(5分以内)

5分以内で読める岸田国士の短編作品(5ページ目)

青空文庫で公開されている岸田国士の作品の中で、おおよその読了目安時間が「5分以内」の短編312作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(〜2,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
201〜250件 / 全312件
Tweet
作品名
著者
読了時間
人気
問題はいはゆる国民錬成の効果についてといふのであるが、私はこの錬成といふ意味を、特定の団体なり機関なりが、その企画として一定数の人員を集め、ある方式によつて一定期間錬成を施すといふ、そのことだけに限らず、時局そのものの必然的な圧力が、むしろ一種の指導的、推進的な作用となつて、国民全体の自覚と発奮を促し、そこに期せずして「錬成」の実を挙げてゐるといふ、そのことをも含めて考へてみたいのである。
友田恭助君夫妻が、私の「ママ先生とその夫」をやりたいと云つて来た。
毎週一回、やかましく云へば演劇に関する時評、くだけて云へば芝居四方山話といふやうなものを書くことになつたのですが、日本の劇壇に親しむやうになつてから頗る日が浅く、市村座が二長町とかに在るといふやうなこともつい此の間知つたばかり、人気俳優沢田正二郎君の舞台も、一二ヶ月前に一度見たつきり、左団次氏が武蔵屋であるか松坂屋であるか、さういふことも、たうたう覚える機会がなく、水谷八重子嬢は、もう三十ぐらゐになる方かと思つてゐたりした、うかつな人間ですから、どうせ、面白い噂の種を拾ひ集める芸当などは...
「速水女塾」は昭和二十三年の作である。
今月の二十三日から、築地座が飛行会館で上演する戯曲の一つに、『二十六番館』三幕といふのがある。
日本中の劇場で、これまで「現代劇」をやつたことがないと云へば、確かにそこ此処から異論が出るだらうと思ひますが、私は、それでも、「日本は現代劇なし」と明言します。
私は小学校以来自分の卒業した学校の式以外に卒業式といふものには列席した経験がありません。
劇団文学座に籍はおいてゐるが、新劇女優の卵にすぎない次女今日子のことをなにか書けといふ註文である。
父の代に大久保百人町に越して来てから、私が、最近、西荻窪に自分の家を建てるまで、凡そ二十七八年間、私自身は殆ど年に一回平均居所を変へてゐる。
人各々その畑ありで、僕は自分の仕事を自分に適した範囲でやらうと思つてゐるが、また一方「新劇」といふ一般の立場から、それぞれの偏向を超越して、共通の問題を問題とすることも亦、自分に課せられた役目の一つだと思つてゐる。
僕は近頃、芝居はどこが面白いかといふ問題について頭を捻つてゐる。
文部大臣が学生の芝居を禁じたことは、その動機に於いて僕は大賛成である。
白耳義軍が国王レオポール三世の命によつて遂に武器を投じたといふことは、今度の欧洲戦乱を通じての、恐らく最も悲痛な事件であらう。
千八百九十五年、「鋏(やつとこ)」(Les Tenailles)を発表して一躍劇壇の注目を惹いたポオル・エルヴィユウ(Paul Hervieu)は、千八百九十七年「人の掟」(La Loi de l'Homme)三幕が国立劇場の上演目録中に加へられる幸運(?)を担ひ、次で千九百一年、ヴォオトヴィル座に於ける「炬火おくり」(La Course du Flambeau)四幕の素晴らしい舞台的成功によつて、遂に劃時代的劇作家の名を肆にした。
僕は嘗て、築地小劇場の上演目録について希望を述べたことがある。
私は今湘南小田原の海岸近くに住んでゐるが、予期した通りの暖かさで、先日の大雪の日も、東京で無理をして品川からやつと電車を拾ひ、日が暮れて小田原の駅を降りると、驚いたことに、うつすらとしか雪の降つた形跡がない。
初日の予定を変更して舞台稽古を見せた新劇協会――これはいろいろの意味で問題になる。
私は本年度文芸懇話会賞候補作品として、関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」を推薦したものの一人である。
芝居と云ふものを強ひて「大勢」に見せるものと考へる必要はない。
新しき「新派」――現代大衆劇――がなぜ起らないかといへば、その第一の理由は、さういふものが現在の日本に欠けてゐることを、劇壇の人々は嘗て問題にせず、大衆も亦さういふ演劇への要求を示さずにゐるからでせう。
文学座の三月公演がゴーリキイの「どん底」にきまり、私にその演出をやれといふ委員会からの命令で、私は「えいッ」と覚悟をきめて、それを引き受けた。
現在、わが劇壇を通じて、演劇の独立性を辛ふじて維持してゐるのは、さすがに歌舞伎劇のみである。
劇作家としてのクウルトリイヌは、既にその仕事ををはつてゐるやうに思はれる。
解らない、然し、何だか、かうふわつと来るものがある。
「作は人なり」といふ言葉は、言ひ古された言葉だが、これは正面から解釈をすると当らぬ場合がある。
井汲清治君の説によると、悲劇は貴族的、喜劇は中産階級的、そしてファルスは民衆的であるとのことである。
友田夫妻を中心とする築地座の仕事は、最近目ざましい躍進ぶりを見せてゐる。
無力な新劇団が乱立し、互に仕事の邪魔をし合つてゐるといふ状態も決して悦ぶべき状態ではないが、それが新劇直接の病根だとは、僕は思はぬ。
「フィガロの結婚」は連続七十三回の上演で、作者ボオマルシェの収入が八万九千法。
オリンピツク大会が今度東京で行はれるについて、その一部門たる文学オリンピツクをどうするかといふ問題が当局の間で評議に上つてゐるといふ話を聞いた。
思想芸術としての思想の魅力は、芸術家が、その思想を、軽く掌の上にのせてゐる時にのみ、われわれの心を動かす。
近代劇の古典といわれるゴーリキイの「どん底」を文学座がそのレパートリーのなかに入れたことは、そんなに驚くには当らない。
最近、仏蘭西版の新しい舞台のレコオドを幾枚か聴く機会を与へられた。
わたくしは劇作といふ仕事を通じて、現代における、「喜劇」の存在理由をますます強く感じるやうになり、その精神の探究と、形式の確立のために、おぼつかない努力をしつづけて来た。
今日演劇について語らうと思へば、勢ひ日本文化の現在のすがたについて考へてみないわけにいかない。
雄弁が文学の一ジャンルとして今日どういふ取扱ひを受けてゐるかといふことを考へてみると、わが国では、先づ第一に、そんな文学のジャンルはこれまで認められてはゐなかつたやうである。
旅の眼に映じた外国の正月をといふお需めで、一昔前の記憶から探してみたが、其処にはほとんど、「お正月」といふものがない。
門司から基隆まで勿論船の上である。
有楽座の「千万人と雖(いへど)も我行かん」は上演を期待してゐたもので、今度新劇協同公演といふ興味のある企画の下に、この久板栄次郎君の力作がとりあげられたことは当然であると思ふ。
一、役者が批評家と公然の舞台で議論するやうになることは、特にいいこととも考へられませんが、自分の主張を、役者なるが故に、堂々と発表できないといふ習慣は、勿論、排撃すべきでありませう。
私は今度隣組長の役を買つて出た。
一九二三年(大正十二年)九月一日、例の関東震災で東京の劇場はことごとく灰になつた。
彼はポルト・リシュやベルンスタンと同じく猶太の血を享けてゐる。
僕は元来活動写真といふものを、それほど研究的に観てはゐなかつた。
われわれが昔からその実体をもたぬわけではないのに、それがひとつの概念として規定されず、従つて、それを指し示す共通の言葉が生れなかつた、といふ例は、枚挙にいとまがない。
僕は小供の時分、どんな菓子が好物だつたか、今思ひ出さうとしても思ひ出せないが、生れてから十年近くを過した四ツ谷塩町附近に、松風堂といふ菓子屋のあつたことを覚えてゐるのは不思議である。
歌舞伎劇を欧米の劇壇に紹介することは、たしかに有意義であり、その企てが案外容易に(実際はいろいろ困難もあつたらうが)果されたことは何よりよろこばしいが、露西亜の芸術家が、歌舞伎の実演から何を学び、何を感得したかを知る方法はないだらうか。
現代の日本人は正しい「生活観」をもつてゐないといふことが、いろいろの場合に証明できるのであるが、それと同時に、広い意味における「生活の技術」を何時の間にか失つて、非常にギゴチない、国民としてはある意味で可なり損な「生活のし方」をしてゐる事実を誰も否定できないと思ふ。
マークのついた作品は著作権が存続しています。 詳細は 青空文庫公式サイトの取り扱い基準 をご確認のうえ、取り扱いの際は十分注意してください。