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岸田国士の全作品(3ページ目)

青空文庫で公開されている岸田国士の全作品639篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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事変は遂にまる二年続いた。
矢代静一君の城館をみて、私は非常に新鮮なものと、極めてゆたかな才能の開花のようなものを認めた。
この作は、順序としては私の第四作である。
巴里で岡田君と別れてから、もう十二三年になる。
素人演劇が特に近頃盛んになりつゝある理由は、いろいろ考へられるけれども、私は、この傾向の一面として、勤労と娯楽との問題が生産部門に於て真剣に取りあげられつゝあることを見逃し得ないと思ふ。
伊賀山君の『騒音』を、最初読んで聞かされた時、僕は、いきなり、たうとう伊賀山君も、作家らしい作家になつたといふ気がし、この戯曲のもつ「真実性」が、単なる見せかけのものでないことを信じたのである。
ある知人の小児科医がかつて私に云つた。
元来、戯曲は舞台で演ぜられるために書かれたものであるが、活字として読まれることも今日では考へなくてはならない。
○文学界の精神といふやうなものがだん/\はつきりして来たことはうれしい。
文学座三月公演のゴーリキーの「どん底」を演出することになり、信濃町のアトリエ近くに宿をとって、みっちりけいこをするつもりである。
私は最近、ある本を読んで非常に感動をうけた。
中元歳暮の贈答を廃止するとかしないとかいふことが問題になつてゐる。
こゝに集めたいくつかの文章は、最近の諸雑誌を通じて私の眼にふれたもののなかから、これは是非青年諸君に熟読してもらひたいと思つた評論感想の類を選んで再録したものである。
新劇協会が、今後経済的支持者を得て、更生の第一歩を踏み出さうとする機会に、その新しい関係者の一人として、私は、世の新劇研究家並に愛好者に訴へる――われわれの仕事を理解し、援助して頂きたい。
十二月号の本誌(「劇作」)に掲載された君の力作『唯ひとりの人』を、たつた今読み了りました。
候補作品九篇のうち、私が最も推賞に値すると思つたのは、庄野潤三の「流木」と小島信夫の「吃音学院」であつた。
岡田禎子さんの「クラス会」は、一読してこれはなかなか面白いものだと思つた。
私がフランスの現代戯曲にはじめて接したのは、この「炬火おくり」である。
私はこの事変以来、全日本の女性の祈願を日夜、胸の底に聴き、彼女たちが、歴史上いまだかつて見ないこの民族の大試煉に堪へる力のみが、やがて祖国日本を救ふであらうと固く信じてゐるのである。
文学座の歴史はまだ十年であるが、かういふ性質の劇団で十年の一貫した歴史をもつことはまづ珍しい部類に属すると思ふ。
われら日本人は先づわれら日本人のなんたるかを識らねばならぬとは、近頃誰でもが口にするところであるが、その「識り方」にはいろいろの角度があつて、これをおほざつぱに分けてみても、自信をもつための識り方と、反省警戒の資料としての識り方とがあると思ふ。
「夢を喰ふ女」は野上彰君の最初の戯曲だといふことだが、私は作者自身に朗読してもらひ、第一幕ですでにその凡手でないことを感じ、ところどころ散漫な部分はあるにはあるが、ともかく、最後まで楽しんで聴くことができた。
紀元節の朝、一映画女優の実演とやらを観るために、多数の見物が丸之内の某劇場に押しかけ、蜿蜒長蛇の列をつくるだけならまだしも、その余りが道路を埋め、百名の警官が整理に当つたが、群衆はその制止をきかず、混乱の極、怪我人まで出してつひに退散を命ぜられたといふ馬鹿馬鹿しい話が伝へられた。
自分のことを云つた序に、もう一つ云ひます。
私の敬愛する先輩、内藤濯氏の近著「思はざる収穫」について何か書けといふ本紙編輯者の命である。
文芸作品の価値を功利的な立場から論じることは私の趣味に合はない。
端役をすら、一生懸命に演ずる俳優は頼母しい俳優だ。
演劇に関する評論、感想の類をあつめて書物にするのはこれで三度目である。
婦人雑誌にかういふ本格的な小説が掲載されたことはまさに類例がないのみならず、さういふ小説が、編輯者の期待以上、読者の反響を呼んだといふこともまた、実に画期的であつたといはれてゐる。
亡妻秋子について私がこゝで語ることは差控へたい。
芸術によつて「名」のみを得たものが一番多い。
私は嘗て、シュアレスを知るために、そして同時に、フランス人の観たイプセンなるものを注意するために、この『Trois Hommes』を読んだ。
友田君の初舞台は新劇協会だが築地小劇場が出来て其メムバーになつたのが大体新劇俳優としてのハツキリした出発点である。
近頃また新劇団が簇出して、盛に招待券を撒いてゐるといふ噂だが、この事実を以て直に新劇の好況時代と見做すことはできない。
ラジオ・ドラマといふものはなかなかむつかしいものである。
私はこれまで「ある俳優」にあてはめて脚本を書いたことはない。
今度の銓衡では、出席者のほとんど全部が、この「広場の孤独」を第一に推し、私もやゝ意を強くすることができた。
矢代君の戯曲は以前二つほど読んでゐた。
本書を編むにあたって、私は、「まえがき」に述べたような精神と内容を盛るために、特にその題目と執筆者の人選に意をくばった。
毎月僕のところへも、各種の劇団からプログラムと切符とを送つてくれる。
映画「にんじん」をみて、第一に感じたことは、監督デユヴイヴイエが、単にルナアルの小説及び戯曲からその主題を藉りたといふばかりでなく、ルナアル流の「文章的表現」を、映画のリズムによつて組立てやうと試みてゐることだ。
毎回おなじ疑問をくり返すことになるが、この芥川賞の性格を、もつとはつきりさせなければ、選そのものも徒らにむつかしくなるし、賞の意味もそのために、稀薄になりはせぬかと思ふ。
この本の著者と私は一面識があるといふだけで、それほど深い交渉はないのだけれども、かねがね地方における篤学篤行の士であることは聞き及んでいた。
新劇協会が、今度、文芸春秋社の手で経営されることになり、われわれは、微力ながら、将来、同劇団の上演脚本選定並に舞台指揮に関して、共同の責任を負はなければならないことになつた。
日本人のすべてが、いま無意識にもとめてゐるものがある。
日本の現状は、まだ新劇の自活を許さないと云はれてゐるのですが、その理由は、言ふまでもなく新劇なるものを進んで観ようとする見物が少いからです。
文芸時代から創作をとの命を受けたこと、五六回、其の都度何かしら身辺に事故がおこつたりさもなければ時日が足らなかつたりして、とうとう一度も責を果すことが出来なかつた。
本誌(「劇作」)四月号、山辺道夫氏の「演劇的青春」といふ評論を読んでみると、僕の名前が引合ひに出されてゐる。
(此の一文は考ふるところあつて特に挟込となす)この翻訳は全く自分の道楽にやつた仕事だと云つていゝ。
今度明治大学の文科に文芸科といふのができ、一般文芸に関する教育、殊に、創作方面に於ける実際的指導をさへすることになり、私も亦、戯曲講座の一部を受持つことになつた。
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