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岸田国士の全作品(4ページ目)

青空文庫で公開されている岸田国士の全作品639篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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阪中正夫君の『馬』が改造に当選したといふ話を聞いて、私は「不思議」なやうな、「当り前」のやうな気がした。
『どん底』の解説(作品)演出方針帝政ロシア時代のモスクワの貧民街。
ファルギエール通りの貸本屋で、「マリイへの御告」を借りて来て、それをモンパルナスの墓地で読んだ――クロオデルを初めて知つたのはその時である。
文化勲章の制定が公布せられたことは、私個人としていろいろ考へさせられる問題があると同時に、国民として、まことに慶賀すべきことだと思ふ。
此の一巻は、私が文筆生活を始めてから今日まで略二年間に亘つて、いろいろな機会に発表した断片的評論又は感想のうち、演劇に関する文章を一纏めにして出来たものである。
日本の「若い時代」が、ジヤン・コクトオを愛読しはじめた。
写実主義者たるべく余りに詩人であり、浪漫主義者たるべく余りに哲学者である芸術家――その一部は、彼らが若し自己の生活を肯定するならば、恐らくファンテジストたる路を撰ぶであらう。
これは本誌(前同)四月号の頁をあらまし占領した小山祐士君の力作だ。
内村直也の劇作家としての出発は「秋水嶺」だと言つていい。
どうも困つた役目を引受けたものです。
新劇といふ言葉も、可なり古くなつた。
今度は読みごたへのある作品が多く、だいたい粒がそろつてゐて、たいへん張り合ひがあつた。
「戯曲時代」といふ言葉の定義は僕が嘗て下したところによると「雑誌の創作欄が、昨日までは小説のみで埋められてゐたのに反し、読み物としての戯曲が、可なりの頁数を占めるやうになつた今日の時勢」に外ならぬのであるが、さういふ時勢も昨年の半頃から、そろ/\また遷りかけてゐるやうに見える。
私が文芸春秋社特派員として北支へ行つたのは去年の十月であつた。
この度大政翼賛会文化部長就任の交渉を受諾致しました。
雑誌「劇作」が生れるについて、私は直接なにも力にはなつてゐないが、同人のなかには親しい仲間も加はつてゐたし、蔭ながら声援をおくるといふ立場で、大いに発展を期待してゐた。
大戦後、欧洲各国の都市に擡頭した新劇運動の余波は、わが国にも及んで、かの表現派、構成派等の新傾向をはじめ、思想的にも技術的にも、様々な流派が一時にわが劇壇の空気を彩つた。
『古い玩具』は、一九二三年、パリの旅舎で書いた私の最初の戯曲である。
私の戯曲の処女上演は、「チロルの秋」です。
ロシヤ文学の紹介者として米川正夫氏の名を知らぬ読書子は今日の日本には先一人もゐまいが、其米川氏がどういふ人であり、好んで自ら語るところにはなにがあるかといふことを、まだ知らぬものがあるだらうと思ふ。
「演劇の本質は、古来の劇的天才が、その不朽の作品中に遺憾なく之を盛つてゐる。
去年の半ば頃から生れて来た所謂新劇の大同団結運動といふのは、簡単にいふならば、それぞれに少数にすぎない熟練的技術者を擁して、一つの劇団としては十分に客を惹く力に乏しいところから、寧ろ各劇団の優秀な技術者を引抜いて、それで一つの劇団を拵へて、十分職業的に自活し得るものにして行きたいといふのがその趣旨であつた。
今期は該当作品なし、といふ決定をみた経過については、私から特に説明する必要はないと思ふ。
先日、仁寿講堂で観たこの新劇団の仕事は、予て聞いてゐた通り、八分賛成でき、二分危険を感じさせるものだ。
注文により、「劇壇へ!」と呼びかけはしましたが、少くとも今日の私にとつて、その相手は何処にゐるのかさつぱりわからないのであります。
「盗電」の舞台監督を引受けた時、すぐ作者の金子洋文君に会つて、いろいろ相談したいと思つたが、生憎金子君は旅行中だといふことで、止むを得ず、自分だけの解釈に従つて稽古を進めた。
卒業製作の採点を命ぜられて、一番困つたことは、標準を何処におくべきかといふこと、並にその点数に表はれた数字が、結局何を意味するか第三者に解つて貰へるだらうかといふことであつた。
最近偶然の機会から、ある映画運動に関係しかけたのだが、今の処、自分一個として、別にその方面にこれといふ抱負があるわけではない。
賑やかな春の芝居も一向に心を惹かない。
この作品について私はなんべんも解説めいたものを書いたが、自分で自分の作品に註釈をつける必要があるとは思はない。
内村直也の名は、いまや天下の知るところで、私の序文はこの書物になにものも附け足すことにはならぬが、需められるまゝに、「えり子とともに」の作者について、私の観るところを少し語ることにしよう。
この書物は旧版の前がきにあるとほり、終戦直後、あわたゞしい空気のなかで、自分のうちにくすぶつてゐる感情を一応整理するつもりで書いたメモに類するものである。
新劇協会のある稽古の日、伊沢蘭奢は、僕を部屋の一隅に招いて、風呂敷包みをほどきかけた。
少しは面倒な仕事、柄にない仕事でも、みんなが順番にやるといふことになると、私はなんとしても厭やとは云へない。
「我家の平和」の作者、ジヨルジユ・クウルトリイヌは、私の最も好きな近代劇作家の一人である。
私は芥川氏の作品を、半分ぐらゐしか読んでゐない。
震災後擡頭した新劇運動の目覚ましい機運は、私の観るところ、あまり順調な進み方をしてゐないやうに思はれる。
日本新劇倶楽部が生れた。
友田君戦死の通知を受けて、かねて覚悟はしてゐたことながらまだ半信半疑の気持である。
舞台に於ける俳優の「白」については、今いろいろ考へてゐることもあるが、戯曲としての「対話」といふやうなことは、もう自分で意識することも厭になつてゐるので、わざわざ理窟をつける気がしない。
新劇を見るほどの人で阪中正夫君の名を知らぬ人はあるまい。
田中千禾夫君について何か書けといふ座(俳優座)からの註文である。
昔から男勝りといふ言葉がある。
演劇をどう定義づけるかにもよるが、私の考へる演劇の本質といふものからみれば、現在の発声映画は、その魅力の一半を演劇的なるものに負つてゐるやうに思ふ。
お手紙の趣旨は第一に、この苦難と不安に満ちた現実生活を、芝居の世界で、つまり、舞台の上で、どんな風に取扱つたらいいかといふこと、ですね。
私が今度、菊池寛氏並に畑中蓼坡氏の勧誘によつて、新劇協会の更生運動にたづさはり、他の諸君とともに応分の力を藉さうとした動機について、一言、世間の諒解を得て置きたいと思ふ。
私が巴里で岡田君を識つたのは、欧洲大戦の終つた一九一九年の初めでありました。
二月三日(水曜)曇いよいよ巴里を離れることになつた。
感想をもとめられて、今、私は改めて云ふこともないが、国民の一人として、今年こそは東亜の天地に黎明がおとづれることを祈るものである。
「わたしは、ヴイルドラツクが、海水服を着てゐるところを見たことがない」と、サヴイツキイ夫人は云ふ――「わたしは、また、『休んでゐる彼』を見たことがない。
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