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田中貢太郎の全作品(2ページ目)

青空文庫で公開されている田中貢太郎の全作品236篇を、おすすめ人気順で表示しています。

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季節は何時であったか聞きもらしたが、市ヶ谷八幡の境内で、壮い男と女が話していた。
兵庫県と岡山県の境になった上郡と三石間の隧道の開鑿工事は、多くの犠牲者を出してようやく竣工しただけに、ここを通る汽車は、その車輪の音までが、「骨がたりない、トコトコトン」と聞えると云って、車掌たちから恐れられていた。
鶴岡の城下に大場宇兵衛という武士があった。
二人の仕事師が某夜夜廻りに往っていると、すぐ眼の前でふうわりと青い火が燃えた。
ハワイのヒロはホノルルに次ぐ都会であるが、そのヒロに某と云う商店があって、賃銀の関係から支那人や日本人を事務員に使っていた。
まだ横須賀行の汽車が電化しない時のことであった。
伝奇物語に興味を有する私は、折にふれて支那の随筆小説を読んだ。
安政年間の事であった。
某禅寺に壮い美男の僧があって附近の女と関係しているうちに、僧は己の非行を悟るとともに大に後悔して、田舎へ往って修行をすることにした。
鶴岡城下の話であるが、某深更に一人の武士が田圃路を通っていると、焔のない火玉がふうわりと眼の前を通った。
日本橋区本町三丁目一番地嚢物商鈴木米次郎方の婢(じょちゅう)おきんと云うのが、某夜九時すぎ裏手にある便所へ入ろうとして扉をあけると、急に全身に水を浴びせられたようにぞっとして、忽(たちま)ち頭の毛がばらばらと顔の上へ落ちて来てまるで散髪頭のようになった。
私が最初に怪談に筆をつけたのは、大正七年であつた。
大正十二年の震災の時であった。
保土ヶ谷の某寺の僧侶が写真を撮る必要があって、横浜へ往って写真屋へ入り、レンズの前へ立っていると、写真師は機械に故障が出来たからと云って撮影を中止した。
大正十二年九月一日、高橋秀臣君は埼玉県下へ遊説に往っていたが、突如として起った大震災の騒ぎに、翌二日倉皇として神田錦町の自宅へ帰ったが、四辺は一面の焼野原。
寛文十年と云えば切支丹で世間が騒いでいる時である。
遠江の御前崎へ往ったのは大正十四年の二月二日であった。
秦の始皇の時、王道平という男があった。
上州の田舎の話である。
昭和六年の夏の夜のことであった。
長野県の上田市にある上田城は、名将真田幸村の居城として知られているが、その上田城の濠の水を明治初年になって、替え乾そうと云う事になった。
鏑木清方画伯の夫人が産褥熱で入院した時の話である。
航空兵少佐の某君が遭遇した実話である。
越前の福井は元北の庄(しょう)と云っていたが、越前宰相結城秀康が封ぜられて福井と改めたもので、其の城址は市の中央になって、其処には松平侯爵邸、県庁、裁判所、県会議事堂などが建っている。
山形県最上郡豊田村に沓澤仁蔵と云う行商人があった。
支那の万暦年中、毘陵に猿曳の乞児があって、日々一疋(ぴき)の猴(さる)を伴れて、街坊に往き、それに技をさして銭を貰っていたが、数年の後にその金が集まって五六両になった。
岩手県の北上川の流域に亀ヶ淵と云う淵があったが、そこには昔から大きな亀が住んでいて、いろいろの怪異を見せると云うので夜など往くものはなかった。
大正十一年十月三十日、横浜市横浜尋常高等石川小学校では、例年の如く天長節の勅語奉読式を挙行した。
小泉八雲の書いた怪談の中には、赤坂に出る目も鼻もないのっぺらぼうの川獺のことがあるが、築地の周囲の運河の水にも数多の川獺がいて、そこにも川獺の怪異が伝わっていた。
京都西陣の某と云う商店の主人は、遅い昼飯を喫って店の帳場に坐っていると電話のベルが鳴った。
志玄という僧があったが、戒行の厳しい僧で、法衣も布以外の物は身に著けない。
千住か熊谷かのことであるが、其処に某尼寺があって、その住職の尼僧と親しい壮い男が何時も寺へ遊びに来ていたが、それがふっつりと来なくなった。
李汾(りふん)は山水が好きで四明山にいた。
明治も初めの方で、背後に武者絵などのついた人力車が東京市中を往来している比のことであった。
荒川放水路に架けた堀切橋、長い長いその橋は鐘淵紡績の女工が怪死した事から怪異が伝えられるようになった。
幕末の話である。
怪談浪曲師浪華綱右衛門の家に、怪奇なお化の面があった。
大阪市住吉区阿倍野筋一丁目に、山本照美と云う素封家の未亡人が住んでいた。
遠州の御前崎に西林院と云う寺があった。
義民木内宗五郎で有名な甚兵衛の渡場のある処は、印西という処であるが、その印西の渡場から西へ十町ばかり往った処に、位牌田と云う田がある。
福岡県嘉穂郡漆生村に平山と云う処があって、そこに坑夫の一家が住んでいた。
壮い漁師は隣村へ用たしに往って、夜おそくなって帰っていた。
明治三十年比のことであったらしい。
三代目尾上菊五郎は怪談劇の泰斗として知られていた。
松山寛一郎は香美郡夜須の生れであった。
大正八年二月二十六日、西比利亜出征の田中中佐の一隊は、過激派軍のために包囲せられて、クスラムスコエ附近で全滅したが、悲壮極まるその戦闘で、名誉の戦死を遂げた小島勇次郎と云う軍曹は、大分県大野郡東大野村の出身であった。
昭和九年三月二十一日の函館の大火は、その日の午後六時から翌朝の七時まで燃えつづけて、焼失家屋二万四千戸、死傷者三千人を出したが、その時火に追われた市民は、猛火の中をくぐって安全な場所から場所へと[#「場所へと」は底本では「場戸へと」]逃げ廻った。
昔から山には魑魅、水には魍魎(もうりょう)がおると云われているが、明治二十年比の事であった。
市ヶ谷の自証院の惣墓の中に、西応従徳と云う法名を彫った墓がある。
明治七年四月のこと、神奈川県多摩郡下仙川村浅尾兼五郎の家へ妖怪が出ると云う噂がたった。
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