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田中貢太郎の全作品(3ページ目)

青空文庫で公開されている田中貢太郎の全作品236篇を、おすすめ人気順で表示しています。

101〜150件 / 全236件
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小説家後藤宙外氏が鎌倉に住んでいた比のことであると云うから、明治三十年前後のことであろう、その時鎌倉の雪の下、つまり八幡宮の前に饅頭屋があって、東京から避暑に往っていた××君がその前を通っていると、饅頭屋の主翁が出て来て、「あなたは××さんと云う方ではございませんか」と己の姓名を云うので、そうだと云うと、「こんなことを、だしぬけに申しましては、へんでございますが、二階堂の方の別荘にいらっしゃる――と云う奥さんが、あなたをお見かけ申したら、どうかお遊びにいらしてく...
これは小説家泉鏡花氏の話である。
伊井蓉峰の弟子に石井孝三郎と云う女形があった。
明治二十二三年比のことであった。
古道具屋の大井金五郎は、古道具の入った大きな風呂敷包を背にして金町の家へ帰って来た。
車という男は、貧乏でありながら酒ばかり飲んでいた。
彼女は裏二階の階子段をおりて便所へ往った。
大正七八年比のことであった。
閨秀画家の[#「閨秀画家の」は底本では「閏秀画家の」]伊藤美代乃女史は、秋田の出身であるが、その女史が小さい時、それは晩春の事であった。
少し古い土地の人なら、八丁堀に岡吉と云う色物専門の寄席があったのを記憶しているはずである。
これは東京の芝区にあった話である。
柳橋の船宿の主翁は、二階の梯子段をあがりながら、他家のようであるがどうも我家らしいぞ、と思った。
番町の青山主膳の家の台所では、婢(げじょ)のお菊が正月二日の昼の祝いの済んだ後の膳具を始末していた。
北海道の○○大学は、後に農園があって、側面が運動場になっているが、その運動場の端れから農園にかけて草の堤が続き、そして堤の外は墓場になっていた。
安永年間のことであった。
長崎市の今博多町、中島川に沿うた処に、竹田と云う青年が住んでいた。
私は物を書く時、面白い構想が浮ばないとか、筋が纏(まと)まらないとかいうような場あいには、六朝小説を出して読む。
よく肉親の身の上に変事があると、その知らせがあると云いますが、私にもそうした経験があります。
東北本線の汽車に乗って宇都宮を通過する者は、宇都宮の手前に雀の宮と云う停車場のあるのを見るであろう。
長安に、方棟という男があった。
空には清光のある夏の月が出て、その光に染められた海は広びろと蒼白い拡がりを持って静かに湛(たた)え、数日前大海嘯を起して、数万の人畜の生命を奪った恐ろしい海とは見えなかった。
高知県高岡郡の奥の越知と云う山村に、樽の滝と云う数十丈の大瀑がある。
中国山脈といっても、播磨と但馬の国境になった谷あいの地に、世間から忘れられたような僅か十数戸の部落があったが、生業は云うまでもなく炭焼と猟師であった。
多摩川縁になった調布の在に、巳之吉という若い木樵がいた。
趙顔という少年が南陽の平原で麦の実を割っていると、一人の旅人がとおりかかった。
なむあみだぶ、なむあみだぶ、こんなことを口にするのは、罪深い業でございますが、門跡様の御下向に就いて思い出しましたから、ちょっと申します。
徳化県の県令をしていた張という男は、任期が満ちたのでたくさんの奴隷を伴れ、悪いことをして蒐めた莫大な金銀財宝を小荷駄にして都の方へ帰っていた。
由平は我にかえってからしまったと思った。
承応二巳年八月十一日の黄昏のことであった。
延宝二年の話である。
これは喜多村緑郎さんの持ち話で、私も本年六月の某夜浜町の支那料理で親しく喜多村さんの口から聞いて、非常に面白いと思ったから、其のうけうりをやってみることにしたが、此の話の舞台は大阪であるから、話中上場の人物は、勢、要処要処で大阪辯をつかわなくてはならないが、私には大阪辯がつかえないから、喜多村さんの話のように精彩のないと云うことをあらかじめ承知していてもらいたい。
劉海石は蒲台の人であった。
何時の比であったか、四国の吉野川の辺に四国三郎貞時と云う長者が住んでた。
梁(りょう)の武帝の大同の末年、欧陽※(おうようこつ)という武人が、南方に出征して長楽という処に至り、その地方の匪乱か何かを平定して、山間嶮岨の地へ入った。
土佐長岡郡の奥に本山と云う処がある。
――これは、私が近比知りあった医学士のはなしであります――私の父と云うのは、私の家へ養子に来て、医師になったものでありまして、もとは小学校の教師をしておりました。
幽霊の自筆田中貢太郎一ぱい張った二十三反帆に北東の風を受けて船は西へ西へ走っていた。
唐の代宗帝の広徳年間の事であった。
加茂の光長は瓦盃に残りすくなになった酒を嘗めるように飲んでいた。
怪僧田中貢太郎官軍の隊士飯田某は、五六人の部下を伴(つ)れ、勝沼在の村から村へかけて、潜伏している幕兵を捜索していた。
小坂丹治は香美郡佐古村の金剛岩の辺で小鳥を撃っていた。
暖かな春の夜で、濃い月の光が霞のかかったように四辺の風物を照らしていた。
崔(さい)は長安の永楽里という処に住んでいた。
お作の家には不思議なことばかりがあった。
これは人蔘で有名な朝鮮の話であります。
直隷に富豪があって家庭教師を傭おうとしていると、一人の秀才が来て、自分を傭うてくれと言った。
貧乏神物語田中貢太郎縁起でもない話だが、馬琴の随筆の中にあったのを、数年前から見つけてあったので、ここでそれを云ってみる。
辛道度は漂泊の旅を続けていた。
唐の開元年中、郭元振は晋(しん)の国を出て汾(ふん)の方へ往った。
奈良県吉野郡掖上村茅原に茅原寺と云う真宗の寺院があった。
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