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1時間〜で読める青空文庫の長編作品(28ページ目)

青空文庫で公開されているすべての著者の作品の中で、おおよその読了目安時間が「1時間〜」の長編1,851作品を、おすすめ人気順に表示しています。

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緒言前年雨のために失敗した白峰山登りを、再びするために、今年(四十一年)は七月下旬高頭式、田村政七両氏と共に鰍沢へ入った、宿屋は粉屋であった、夕飯の終るころ、向い合った室から、一人の青年が入って来た、私たちが、先刻から頻に白峰、白峰と話すのを聞いて、もしやそれかと思って、宿帳で、姓名を見てそれと知った、というので同行を申し込まれたのである、大阪高等工業学校の生徒、倉橋藤次郎氏である、一人でも同行者を増した心強さは、言うまでもない。
“同塵居”誓詞に代へて我昔所造諸悪業皆由無始貪瞋痴従身語意之所生一切我今皆懺悔三帰礼自から仏に帰依し奉る当に願はくは衆生と共に大道を体解して無上意を発さん自から法に帰依し奉る当に願はくは衆生と共に深く経蔵に入りて智慧海の如くならん自から僧に帰依し奉る当に願はくは衆生と共に大衆を統理して一切無礙ならん願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道...
千世子は大変疲れて居た。
(一)緒言毎年この六月に、弘法大師降誕會が主催となり、東西の碩學を聘して講演會を開き、大師の遺風餘徳を偲ぶといふことは、極めて結構な企と思ふ。
大野卯平邸の豪華な応接室。
諸君の『食習採集手帖』が整理せられたら、この語彙はまた大いに増加することであろうが、それを促す意味をもって、まず自分の今までに控えておいたものを並べてみる。
天城山より笠山までむかし太田道灌が始めて江戸城を築いた時、城上に間燕の室を置て之(これ)を静勝軒と名付け、東は江戸湾を望み西は富士秩父の連嶺を軒端に眺めた所から、東を泊船亭と曰(い)い西を含雪斎と曰うたとのことである。
地球創成の面影遠い遠い昔のこと、もちろん人間などまだ地球上に現れなかった時代、おそらく数千万年もの大昔に、太平洋の深海の底に、大きい亀裂がはいった。
一匹のイワシ日曜の夜になると、梅村亮作の女房信子はさッさとフトンをかぶって、ねてしもう。
火遁巻千曲川に河童が棲んでいた昔の話である。
手提鞄の右肩に赤白の円い飛行会社のレベルがはられた。
私はいつも自分にだけ関心をもって生きてきたのだ。
飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も惜まれる一つは馬琴の硯(すずり)の水の井戸である。
●目次◆未収録詩篇(1936〜1940)性別の谷一つの太陽と二つの現実パドマ雪の伝説を探るには右手と左手或る旦那の生活寓話的な詩二篇温和しい強盗猿と臭い栗国民の臍を代表してさあ・練習始め芝居は順序よくいつてゐる日比谷附近多少の埃は平民と愛愛と衝動と叡智文学の大根役者に与ふ転落インテリの硬直喜怒哀楽の歌怖ろしい言葉...
一月一日(日曜)起き初め普通の御飯のたべぞめ病院では元日には先生がた出て来る。
[#ページの左右中央]宇宙は意志の現れであり、意志の本質は惱みであるシヨウペンハウエル[#改ページ]自「青猫」の初版が出たのは、一九二三年の春であり、今から約十年ほど昔になる。
市村羽左衛門の芸の質についての研究が、此頃やつと初まつたやうである。
岡といふ彫刻家のモデルを務めて私がそのアトリヱへ通ひ、日が延びる程の遅々たるおもむきで、その等身胸像の原型が造られてゆくありさまを緯となし、その間に巻き起る多様なる人事を経として、そしてその胸像が完成される日までを同時に本篇の完結と目指して、これには凡そ四五十枚の前篇がありますが、それはそれとして、新たに稿をすゝめます。
凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。
丸山定夫君――本誌〔演劇・昭18〕昨年十二月号に君の書いた「答えと問い」を読んだ。
前から分っていた通り、父は五十歳限り砲兵工廠を解職になった。
矜りとは自ら恃(たの)むところがあることであります。
前篇「草川の旦那さん。
「親分、面白い話がありますよ」お馴染のガラツ八こと八五郎、髷節へ赤蜻蛉を留めたまゝ、明神下の錢形平次の家へ、庭木戸を押しあけて、ノソリと入つて來ました。
私は品行方正な人間として周囲から待遇されて居る。
とんとどうも分らない!堅気な基督教徒が何かを手に入れようとして、まるで猟犬が兎を追つかけるやうに、あくせくとして骨を折つても、どうしても旨くゆかないやうな場合に、そこへ悪魔めが荷担して、奴がちよつと尻尾を一つ振らうものなら、もうちやんと天からでも降つてわいたやうに、ひよつこり望みの品が現はれてゐるのだ。
「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明がぱっと燃えながら二本――誰も言うことでございますが、他にいたし方もありませんや。
お話のはじまりコペンハーゲンで、そこの東通の、王立新市場からとおくない一軒の家は、たいそうおおぜいのお客でにぎわっていました。
おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥(おい)なぞの側に眼をさました。
「あんた、居やはりますか。
この話は大正十二年の暮から昭和三年の春までの四年あまりにわたって、私が先生の下で学生または助手として働いている間に、実験室や御宅の応接間で折にふれて先生から聞いた話を思出すごとに書き留めておいたものを整理したものである。
南路宮本百合子シューッ、シューッ、……ギー。
「課長さんは居ますか」「いま鳥渡座席にいませんが――私は秘書です。
先き頃、京阪方面の古刹めぐりから戻られた柳井先生の旅がたりのうちに、大和中宮寺の「天寿国曼荼羅」のおはなしがあった。
バクダッドの町に、ヒンドバッドという、貧乏な荷かつぎがいました。
読書と実生活若い人達の為めに、小説を書くに就いて、私の経験した作法見たいなものを書いて見る。
模型飛行機丁坊という名でよばれている東京ホテルの給仕君ほど、飛行機の好きな少年は珍らしいであろう。
不案内な道を教えられるままに歩いて古河の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている道ばたで、子供を遊ばせている老婆に私はまた尋ねた。
この小冊子はいかにして融和を促進すべきかということを主として説述したもので、いわゆる特殊部落民なるものは、決して普通部落民と筋の違ったものではなく、ただ昔の落伍者のある者が、その択んだ職業によって、当時の社会の迷信と、階級的意識の犠牲となったにほかならぬということを述べたに止どまり、私の特に宣伝したいと思うところの、歴史的の説明にはあまり多く及ぶことができませんでした。
旅日記八月二日晴れて暑い、虹ヶ浜。
生と死は紙一枚の差だ。
母親に脚気があるので母乳はいっさい飲まさぬことにした。
一の「また酔っちまったのかい、しようのないこだねえ、お客さんはどうしたの」「いま菊ちゃんが出てるわ、こうなっちゃだめよかあさん、このひとにはお侍はいけないって、あたしそ云ってあるじゃないの」「お侍ばかりじゃないじゃないか、お客ってお客を振るんじゃないか、それあ今のうちはいいさ、稼ぐことは稼いで呉れるんだから、こっちはまあいいけどさ、こんなこっちゃおまえ、いまにお客が黙っちゃいないよ、さんざっぱらおまわりだのちんちんだの好きなようにひきまわしておいてさ、いざとな...
あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそにひまくらすれ津の国兎原の山下に小さい家を作って住んでいた彼に、やっと宮仕えする便りが訪ずれた。
「お爺(じい)さん、お爺さん。
沢一寿悦子その長女愛子その次女奥井らく家政婦桃枝その子神谷則武輸入商田所理吉船員、悦子等の亡兄の友人東京――昭和年代[#改ページ]某カトリツク療養院の事務長、元副領事、沢一寿(五十五歳)の住居。
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