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30分以内で読める青空文庫の短編作品(84ページ目)

青空文庫で公開されているすべての著者の作品の中で、おおよその読了目安時間が「30分以内」の短編4,431作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(4,001〜12,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
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「宿をお求めではござらぬかな、もし宿をお求めなら、よい宿をお世話いたしましょう」こう云って声をかけたのは、六十歳ぐらいの老人で、眼の鋭い唇の薄い、頬のこけた顔を持っていた。
奈良や吉野とめぐつてもどつて見ると、僅か五六日の内に京は目切と淋しく成つて居た。
港というものは、遠く海上を旅する人々の休み場所、停車場というものは、陸上を往き来する人々の休み場所、どちらもにぎやかなものです。
お寺の境内の踊り場で男はさんざんに踊つた、疲れてへと/\になるほどに、呼吸がぜいぜいと鳴りだすほどに手を振つたり足を振つたりした。
西の琴平、東の成田不動、汽車をひかへて、參詣者年に數十百萬の多きに及ぶ、迷信の絶えぬ世なる哉。
牧野さんの自殺の真相は彼の生涯の文章が最もよく語つてゐる。
新聞で読者の最も多いのは「人生案内」とか「身上相談」という欄だそうだ。
余が病体の衰へは一年一年とやうやうにはなはだしくこの頃は睡眠の時間と睡眠ならざる時間との区別さへ明瞭に判じ難きほどなり。
ふと大塚さんは眼が覚めた。
「それ喧嘩だ」「浪人組同志だ」「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ」ワーッ[#「ワーッ」は底本では「ワーツ」]と群衆なだれを打ち、一時に左右へ開いたが、遠巻きにして眺めている。
自分の信ずる事の出来る唯一のものは、やはり自分自身より他にはありません。
思想と性格「思想」といふ言葉がたびたび口にされる。
『年寄には珍らしい』と、老婆の大食が笑ひ話に、母屋の方の人達の間で口にのぼるやうになった頃は最早老婆もこの家の人達に厭(あ)きられはじめてゐた。
隠れた助力者道雄少年のお父さんは仁科猛雄と云って、陸軍少佐です。
私は一九二七年から三〇年までソ連におりました。
手紙恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。
「あのときは実に驚きました。
十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。
プルウストに關する三つの手紙を神西清に宛てて書いてから數ヶ月が過ぎた。
之は思出の記である。
清朝の乾隆嘉慶の時代は考據の學が全盛を極めた時であつて、經學は勿論史學に於ても考據の大家たる錢大※・王鳴盛などといふ人が出て、史學の風潮を全く考據に傾けたのであつた。
紅葉先生在世のころ、名古屋に金色夜叉夫人といふ、若い奇麗な夫人があつた。
十万円で息子を殺さす――布教師ら三名逮捕――【青森発】先月二十三日東北本線小湊、西平内間(青森県東津軽郡)線路わきに青森県上北郡天間林村天間館、無職坪得衛さん(四一)の死体が発見され、国警青森県本部と小湊地区署は他殺とみて捜査を進め、去る八日、主犯として青森県東津軽郡小湊町御嶽教教師須藤正雄(二五)を検挙、さらに十八日朝被害者の実父である上北郡天間林村天間館、民生委員、農坪得三郎(六一)と得三郎を須藤に紹介した同、行商坪勇太郎さん妻御嶽教信者しげ(五〇)...
昭和×年の十月三日午後六時半。
二十歳前後のメリヤスの半シヤツの上に毛糸の胴巻をした若衆がよろよろと立ちあがつて、片手を打ち振るやうにして、「これから、浪花節をやりまアす、皆さん聞いておくんなさい、」そして隣のテーブルへ行つて、其所に置いてあつた白い扇を取つて、テーブルの上をバタバタと敲き出した。
こはわが少年の日のいとしき小唄なり。
岡田夫人から「八千代集」を頂いた。
夢中の夢嗚呼かく弱き人ごゝろ、嗚呼かく強き戀の情、[#改ページ]朝靄の歌もらすなよあだうつくしの花、消ゆる汝共に散るものを、うつくしとても幾日經ぬべき、盛りと見しははやすたり[#改ページ]春駒第門出北風に窓閉されて朝夕の伴となるもの書と爐火、軒下の垂氷と共に心凍り眺めて學ぶ雪達摩、けふまでこそは梅櫻、...
「いまの、あの婦人が抱いて居た嬰兒(あかんぼ)ですが、鯉(こひ)か、鼈(すつぽん)ででも有りさうでならないんですがね。
嘘言を吐くと云ふことは悪いことだと私達はずつと小さい時から教へられて来ました。
秋色寄席懐古秋になると、あたしの思い出に、旧東京の寄席風景のいくつかが、きっと、儚(はかな)い幻灯の玻瑠絵ほどに滲み出す。
高原の秋「いい空気だなア――」英二はそういって、小鼻をびくびくさせ、両の手を野球の投手のように思い切り振廻した。
層雲峡の偉観富士山に登って、山岳の高さを語れ。
何時ものやうに歸つて來ると、跫音をしのばせて梯子段へ足さぐりで行つたが、梯子段の下の暗がりで、良人の堂助が矢庭に懷中電燈をとぼした。
ネオンの中に明滅する追憶私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。
カザノヴァの回想録を訳しはじめてみると、いろいろな問題が自分にも起こつて来るし、この書物の解説といふやうなものが同時になくてはならぬといふ気がするので、既に世にあらはれている文献をできるだけ探す一方、自分自身のメモもひと通り作つておきたいと思つてゐる。
今宮の自慢話ことしの夏は、そんな間がなくて、とう/\見はづして了うたので、残念に思うてゐる。
自然現象の科学的予報については、学者と世俗との間に意志の疎通を欠くため、往々に種々の物議を醸す事あり。
余が北見の国利尻島の利尻山に登ったのは、三十六年の八月である、農学士川上滝弥君が、数年前に数十日の間この山に立籠って、採集せられた結果を『植物学雑誌』に発表せられたのを、読んでから、折があったら自分も一度はこの山に採集に出かけたいと思っていたが、何分にも好機会がないので、思いながら久しく目的を達することが出来なかった、然るに山岳会の会員中で高山植物の採集と培養に熱心な加藤泰秋子爵が、この山の採集を思い立たるるとの話を聞いたので、もし同行が出来れば自分は大変に利益を得られるであろうと信じた...
わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみてよみ人しらず上総の守だった父に伴なわれて、姉や継母などと一しょに東に下っていた少女が、京に帰って来たのは、まだ十三の秋だった。
(第一日)快晴――私は八時に起床して、いでたちをとゝのへ、首途の乾杯を挙げ、靴を光らせ、そして妻の腕を執り、口笛の、お江戸日本橋――の吹奏に歩調を合せながら、この武者修業のテープを切つた。
今晩何か茲に出てお話をして呉れと今村さんからのお頼みでありましたが、何分私は斯う云ふ席に出てお話する資格は無いのであります。
彼は、自分の父親を取りいれた短篇小説を続けて二つ書いた。
都会には、都会特有の一種の幽気がある。
数年前、孟買の赤丸平家の日本人倶楽部の Chamber maid に河上アダという混血児が雇われていた。
サラサラサラと茶筌の音、トロリと泡立った緑の茶、茶碗も素晴らしい逸品である。
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