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10分以内で読める青空文庫の短編作品(46ページ目)

青空文庫で公開されているすべての著者の作品の中で、おおよその読了目安時間が「10分以内」の短編2,631作品を、おすすめ人気順に表示しています。

(2,001〜4,000文字の作品を対象としています。読了時間は「400字/分」の読書スピードで計算した場合の目安です)
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無くて七癖というように誰れでも癖は持っているものだが、水島の癖は又一風変っていた。
遍歴ある時はヘーゲルが如萬有をわが體系に統べんともせしある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひしある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬある時はヘルデルリンと翼竝べギリシャの空を天翔りけりある時はフィリップのごと小さき町に小さき人々を愛せむと思ふある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせしある時は淵明が如疑はずかの天命を信ぜんとせ...
午後から日がさし、積った白雪と、常磐木、鮮やかな南天の紅い実が美くしく見える。
一九二二年の暮れ、スタニスラウスキイの率ゐるモスコオ芸術座の一行が巴里を訪れた。
私の家は代々薩摩の国に住んでいたので、父は他の血を混えない純粋の薩摩人と言ってよい。
学校奉職時代の前に少し遡り、話し残したことを補充して置きたいと思います。
根津の大観音に近く、金田夫人の家や二弦琴の師匠や車宿や、ないし落雲館中学などと、いずれも『吾輩は描である』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦沙弥先生の居は、去年の暮れおしつまって西片町へ引き越された。
幕末外交に関する法学的研究には、尾佐竹氏以下の権威的著作があって、われわれの場所でないのだが、幕末外交問題の本質が通商にあるように、幕末維新史の鍵もまた貿易に、さらにそれが、徳川末期以後次第に国民化されつつあったわが経済組織におよぼした決定的影響のなかに、求められる。
一千九百三十九年一月×日街裏の酒場「騒音と煙」の一隅に於て、酔っぱらいの私がやはり酔っぱらいのオング君を、十年振りに見出したと思いたまえ。
姙娠是より先き妾(せふ)の尚ほ郷地に滞在せし時、葉石との関係につき他より正式の申込あり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨申来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井に柬(かん)して其(その)承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途に就きしは廿二年七月下旬なり。
蠅宮本百合子梅雨にはひろいものの晴れ上った天気である。
雷のことをイカヅチと云つて、古事記にも大雷、黒雷等とあるが私は嘗(かつ)てイカヅチは厳槌で、巨大な槌といふ語原だらうと思ひ、上代人が、彼の響きを巨大な槌を以て続けさまに物を打つと考へたその心理を想像したのであつたが、それは素人的な理窟で、実は間違つて居た。
我文部省の仮名遣改定案は既に山田孝雄氏の痛撃を加へたる所なり。
たくさんな金魚の子が、おけの中で、あふ、あふとして泳いでいました。
多くの文明諸国におけると同じ様に、日本でも、やきもの、つまり陶磁器が日常生活の什器として使用され始めた時期は、遠く紀元前数世紀に遡ることが出来る。
三千年を流るゝ長江漫※(も)[#「さんずい+(くさかんむり/奔)」、83-上-3]たり、其始めは神委にして、極めて自然なる悖生にゆだねたり、仲頃、唐宋の学芸を誘引し、印度の幽玄なる哲学的宗教に化育せられたりと雖(いへども)、凡ての羣流、凡ての涓※(も)(けんくわい)[#「さんずい+會」、83-上-5]を合せて、長江は依然として長江なり。
私に団子坂周辺を描いた小説が二つある。
道友会へ出席するのは、今夕で二回目ですが会員になることを許されたのを、私も有難い事と常に感謝している。
彼は此頃だらけ切つた恋愛に引摺られてゐることが、ひどく憂鬱になつて来た。
朝、起き上るたびに私は一種不可解な気持をもつてあたりを見廻さずにはゐられない。
杉野君は、洋画家である。
白人劇の忠臣蔵や菅原はかねて噂には聞いていましたが、今度米国へ渡って来て、あたかもそれを見物する機会を得ました。
媼(おうな)の名は、Marie(マリー) Hillenbrand(ヒルレンブラント) といふ。
竹取物語に就いて竹取物語は我國に小説あつて始めての者である。
その昔し、豊臣家が亡びかけてからの事、和寇と云ふものがあつて支那の東南の海岸を荒す、其の勢すさまじく、支那人大に恐れをなして、南清のある孤島に高い/\見張所をこしらへて、いつもその見張所の上に番人が居て、和奴来るや否やと眼を皿大にして見て居る。
辛道度は漂泊の旅を続けていた。
「いくつお突きなります」「さあ、しばらく突かないんですが……」玉突く男は曲者。
――その時からまた、又の七年目が※り來ようとしてゐる。
丹羽文雄の向うをはるワケではないが、僕も西荻随筆を書かなければならない。
「雲雀の卵を拾らえに行んべや」「うん」「葦剖も巣う懸けたつぺな」「うん」眞ん中に皿を殘(のこ)したかつぱ頭を、柔かな春風になぶられながら、私達は土手を東へ、小貝川の野地を駈け下りた。
感想といふところであるから、正確な材料によるものではないし、その上、そんな材料を集めたりすることに餘り興味を持たない私であるから、此處では、只永い年月、イプセンの日本語譯に接した折々に、感じたことを、思ひ出すまゝに書付けて見よう。
唐の開元年中、郭元振は晋(しん)の国を出て汾(ふん)の方へ往った。
時は明治四年、処は日本の中央、出船入船賑やかな大阪は高津のほとりに、釜貞と云へば土地で唯一軒の鉄瓶の仕上師として知られた家であつた。
彼等は鼠のやうに遊んだ。
僕は去年の今ごろ、台湾の方へ旅行をした。
小さな姉弟は、父の目が、だんだん見えなくなるのを心配しました。
○一日を隔てた三十日に二回目の訪問をした。
或人に答ふる文思へば千九百七、八年の頃のことなり。
明治座の一番目「明智光俊誉乗切」は三幕にて、山崎合戦より唐崎の馬別れに終る。
矢張私達の問題は、作者の頭の中のイリユウジヨンを如何にそこにあらはすかといふことが大切であつて、古来幾多の作品に徴してもそれだけはたしかであるやうである。
この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。
社命を畏こまつて雲の彼方の露都を志し六月十二日雨持つ空の何となく湿つぽい夕弱妻幼児親戚の誰彼、さては新知旧識のなつかしき人々に見送られ新橋より大阪行の客となる。
私は、蔵書というものを持ちませんが、新聞や、雑誌の広告に注意して、最新の出版でこれは読んで見たいなと思うものがあると求めるのがありますが、旧いものは、これは何々文庫というような廉価本で用を達しています。
今度計画せられた此書物は、類変りの随筆集といふだけに、識り合ひの方がたが、どんな計画で、思ひもかけぬ事を書かうとして居られるかといふ事が、かうして居る今でもまざ/\と胸に泛んで来る。
岩と土とからなる非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。
昔は多くの詩人たちが、月を題材にして詩を作つた。
「また入学試験で、若い人達は骨身を削っているようですねえ」客の藤岡さんは、しんみりした口調で言いました。
芝居を見るのは、何年振りのことだ。
月評をして、あらゆる情実より脱せしめよ。
私は先日来、福島県下にある祖父の旧宅に来ている。
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